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北九州協議会事務所開設記念祝賀会を盛大に開く (2006/10/14)

事務所を拠点にさらに前進を
 北九州協議会事務所
開設記念祝賀会を盛大に開く

Img20061014_1
 10月14日、北九州小倉北区の中華料理店で北九州協議会事務所開設記念祝賀会が開催され、51名の会員、読者の皆さんが参加しました。

 会場正面には、「事務所を拠点にさらに前進を!」のスローガンが掲げられ、今後の活動発展への大きな決意を固めました。
 小倉支部事務局長の中村訓八さんの司会で始められ、最初に協議会の議長、原博道さんより主催挨拶。「北九州規模で会合を開いたのは、協会結成25周年の記念パーティ以来31年ぶりです。感無量です。1966年からの日中間のむつかしい問題に直面し、大きな困難を抱えて今日まで活動してきました。昨年以来、再建した戸畑支部の会員4倍かをはじめ、小倉支部中心の活動から、門司支部の再建、八幡支部の結成への展望、若松での活動など北九州段階で今後の平和と日中友好運動にとって画期的な展望を切り開くことが出来ました。今後とも協会発展への力添えを訴えます」と謝辞を述べました。
 来賓として参加した県連理事長の岩佐秀樹さんからも、「新しい事務所の開設をともに喜びたい。昨年以来の戸畑を初めとした会員拡大は県連全体の発展の原動力にもなっています。今後とも事務所を拠点にして頑張っていただきたい」と激励の言葉がありました。
 西村義一戸畑支部事務局長の発声で乾杯のあと、祝賀のスピーチや各人からの一言づつの発言がありました。
 ある方は、「中国映画上映会に2回参加して感動した。次の映画会も参加して感激したら日中友好協会に加入します」と話しました。
 最後に「東京-北京」を合唱して閉会しました。また、事務所開設にあたり多くの方からカンパ、祝儀が多数寄せられました。  (須)

2006年 10月 19日 北九州協議会 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日中友好協会北九州協議会 念願の事務所開設

   日中友好協会北九州協議会
    念願の事務所開設 

 日中友好運動を、今日の情勢にふさわしいものに発展させるために、その拠点となる事務所を確保することは北九州の全会員の念願でした。
 昨年来、戸畑支部再建を皮切りに、門司、八幡支部再建の機運の高まりの中で、小倉支部と合わせた北九州協議会の事務所が開設されました。
 場所は小倉北区の中心地、「リバーウォーク」の前という大変便利なところです。
40年ほど前、戸畑支部の事務局長だった原博道北九州協議会議長は「数十年ぶりの本格事務所で、。感無量です」と語っています。

◎ 事務所 ・ 北九州市小倉北区室町2-2-9 福留ビル2階201号
          電話 093-583-7072

事務所開設記念祝賀会
 ◎ 日時 10月14日(土)午後6時
 ◎ 場所 小倉飯店  小倉北区堺町1-8-14 電話531-4931
 ◎ 会費 4千円
 ◎ 申込 10月11日まで

2006年 10月 1日 北九州協議会 | | コメント (0) | トラックバック (0)

糸島支部総会開く (2006/9/16)

20%組織拡大を決める
糸島支部総会開く
Img20060916
 糸島支部は第4回総会を9月16日に前原市で開きました。
台風が近くまで来ているということで、参加者が少なくなりましたが、会議前に卓球大会を開いてリラックスして総会を行いました。
 総会では、支部が着実に前進していることを互いに確認しました。「今後、もっと糸島の多くの人に日中友好協会を知ってもらうため努力してもらいたい。」「最近の中国事情についての講演会など、開いてもらいたい。」の意見がありました。総会では、全国大会までに全国目標10%を上回る20%の組織拡大をおこなうことを決めました。
 来賓として出席した県連の松山盛利事務局長は「今、日中友好協会の出番です。多いに会員を増やして運動を進めていこう」と挨拶しました。
 懇親会では、東芙美子、東泰之両氏の太極拳の表演がありました。(H)

2006年 10月 1日 糸島支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の青年は歴史問題を考えてほしい

日本の青年は歴史問題を考えてほしい
 久留米筑後支部講演会参加の
  中国人留学生から感想文

 8月26日に久留米筑後支部は「日中戦争の体験と今後の日中問題」と題して講演会を開きました。 当日参加した中国人留学生のL子さんから感想文が寄せられましたので紹介します。

 ◎ 日中戦争の歴史の真実、今後の世界関係の中で中国と日本がどう連携していくかなど、幅広くいろんな問題が語られました。
 講師の甲斐悟さんが自分の孫を中国に連れて行って、戦争の真実を語られたという話に、中国に対する熱い友好の気持ちを感じました。
 戦争は人類にとって最大の不祥事ですが、日本と中国の間に起こった戦争は、両国の人民に深い傷を残してしまいました。今私たちは、如何にこの歴史を認識すべきかが大きな問題です。過去を直面できないと未来がうまく付き合えないと思います。過去を安易に清算するのではなく、歴史の真実をもっとたくさんの日本人に知ってほしいのです。それは、私たち中国人の願いです。両国で二度とあのような悲惨なことを起こさないように努力すべきです。
 講演で聞いたお二人の話は、私たちが中国で受けた教育と同じ内容でした。だから、中国では特に反日教育をしているのではないことを強く感じました。
 ただ、とても残念に感じたのはこのようないい話がもっとたくさんの日本の青年に伝えられて来なかったことです。当日、会場は、ほとんど年配の方ばかりで、本当は日本の若い人たちにこの問題を考えさせ、歴史の真実を伝えるべきです。また、そのような真実をちゃんと語れるような人がたくさんいれば、もっといいと思っています。

2006年 10月 1日 久留米筑後支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論 その1 (2006/9/20)

法廷を埋め尽くす原告、支援者
中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論

Img20060920
裁判を終えての報告集会。馬奈木弁護士、田中弁護士が「国に悪いことしたと
認めさせるまで、力を合わせてがんばろう」と心に染みる熱いあいさつをしました。

 残留孤児福岡訴訟第9回弁論は、9月20日、福岡地裁で開かれ、原告の毛利憲治さん、田中弁護士が意見陳述をしました。
 当日も、大法廷の傍聴席は原告と支援者でいっぱいとなりました。
 3人の意見陳述の要旨を順次紹介します。

第9回弁論 意見陳述書 要旨 その1
原告 毛利憲治

 私は大分の日田市に住んでいます。1943年9月17日に「満州国」黒龍江省の元宝村で生まれ、今年63歳です。終戦当時、まだ2歳にもなっていなかった為、周囲の状況は知りませんでしたが、父母は大分県の開拓団として中国に渡ったそうです。その後父は召集されフィリピンに送られ1945年に戦死しました。
 日本の敗戦により、ソ連軍や中国の地方軍が開拓団の日本人を襲うようになり、中国に残された日本人は集団自殺したり、殴り殺されたり、銃殺されたり、餓死や病死したりと、本当に大勢の人が亡くなりました。私の母も苦しい状況の中で、6歳の姉と2歳にならない私を連れて、鉄道のレールの上で横になり、自殺をしようと汽車がくるのを待っていました。3時間待ちましたが汽車は来ませんでした。そのような時、鉄道局に勤務していた後に私の養父になる中国人が、片言の日本語で「ここで何をしているのか?」と尋ね、母は「自殺をしたい」と答えた為、自殺することを思いとどまるよう説得し、私達親子は救われました。
 私が4歳の時に、姉が病死し、6歳の時母が病死し、私は孤児となりましたが、命を救ってくれた中国人が私の養父となり、実の子以上の愛情を持って私を育ててくれました。養父は知識と教養があり、大変優しく、私が虐められてはいけないと、後妻も娶りませんでした。愛情深く慈しんでくれた養父の恩は、永遠に忘れることはありません。しかし、養父の生活状況は裕福ではありませんでした。養父の負担を軽減する為、私は14歳で小学校を卒業すると、すぐ工場で働き始めました。働きながら工場の技術学校で2年間勉強し、その後、企業管理等の専門知識を学び、労働者、技術者、管理職等の仕事に就きました。
 養父は私の為に何度も引越しをしたので、誰も私が日本人であることを知りませんでした。文化大革命の時、日本人の孤児が批判闘争されている光景をこの目で見ましたが、大変恐ろしい光景でした。日本のスパイ、階級の異分子、革命の隊伍にもぐり込んだ敵などと、様々なレッテルを貼った帽子をかぶせられて、無情な批判や暴力行為を受けているのです。優しい養父や妻子までも巻き添えにするのでは、と考えると身も震えるような恐怖を感じました。
 1972年に日本と中国の外交関係が結ばれましたが、ほとんどの日本人孤児には、帰国の為の具体的な措置や方法、手段などの情報が伝わらず、皆どのようにしてよいのか分かりませんでした。もしこの時、日本政府がすぐに孤児を帰国させる手立てを講じていたら、孤児が遭遇した色々な状況も現状とは決定的にちがったはずです。多くの孤児が帰国するようになったのは、1980年頃からです。この10年の遅れは、孤児の直面する言葉の問題や仕事の問題を更に困難にさせ、本当に取り返しのつかない遅れにしてしまいました。もっと早く帰国できたら・・・と、多くの孤児は今でも悔しい思いでいます。
 1978年、病床の養父から、はっきりと「お前は日本人の遺児で日本にはお前の身内がいる、機会があればお前の祖国に帰りなさい」と言い、手がかりをいくらか残してくれたことは、私にとって幸運なことでした。
 1980年に日本の民間団体が残留孤児を探す活動を行っていることを職場の親友から教えられました。私は手紙を書いて養父が残してくれた手がかりを知らせ、1年余りの時間を経て、母親の違う姉を見つけることができました。私は、ただただ一刻も早く姉に会いたいと思うだけで、他の事は何も考えませんでした。
 1982年11月、日本に一時帰国し姉に会い。40年経ってやっと故郷に帰りつくことができました。しかし、帰ってから私が15歳の時に死亡宣告されていて、戸籍が抹消され、墓石もあり、そこには私の名前が刻まれていました。国はどうしてこのような事をするのでしょうか。生きている人間に死亡を宣告し、死亡宣告さえすれば、私達を永遠に捨て去ることができるというのでしょうか。1983年4月に裁判所を通じて戸籍を回復しましたが、何をするにも外国人登録証を要求されました。日本政府は私達を日本人と認めていたのでしょうか?
 1990年7月、一家4人(私と妻、二人の子供達)で帰国し、福岡県宇美の帰国者定着促進センターに入所しました。しかし20歳を越えていた長男の旅費は支給されず、定住する際も生活費も貰えませんでした。家族が離れ離れになる悲劇を二度と繰り返さないため、苦しい経済状況でしたが、自費で支払いました。
 1990年11月姉のいる日田市に引越し、3ヶ月だけ生活保護を貰いその後仕事を自分で探し、必死に働きました。飲食関係の仕事に2年、車の部品を扱う会社に2年、青果会社に8年勤務し、2003年9月、満60歳で定年退職しました。
 その後、息子が日田市で中華料理店を開業し、私達夫婦は、現在この息子の店を手伝いながら、食事させてもらっています。息子も4人家族で余裕がないので、お金は貰っていません。社会保険事務所に行って厚生年金を計算してもらいました。年金対象期間は137ヶ月で、もらえる年金は60歳から63歳までが毎年4万6千円、63歳から65歳までが毎年29万円、65歳以降は毎年48万円あまりです。これだけのお金でどうして生活できますか?これからどうやって生活していけばいいのでしょうか?帰国して3ヶ月だけ生活保護を受け、後は必死に努力して、働いてきました。それなのにこのような僅かな年金しか貰えないのです。日本政府は、このような私達残留孤児の経済状況をはたして知っているのでしょうか?聞くところによると、孤児の8割近くが生活保護を受け、少ない生活費で、僅かなお金を節約し、食事や日用品さえも削っています。養父母のお墓参りに中国に行くと生活費は差し引かれます。本当に優しい恩のある私の養父のお墓参りも、お金がないために、私は12年も行けないのです。良心がさいなまれ、心が痛みます。孤児は皆同じ気持ちです。
 私達は、多くを望んでいるのではありません、普通の日本人の暮しがしたいのです。私達残留孤児が、日本国籍を失い、日本語が話すことができなくなった原因は、戦争にあり、戦争は国家が引き起こしたことです。日本国内に住んでいた日本国民とは違う多大な被害を受けているのです。勇気を持って、私達に生きる希望を与える判決を下してくださるようお願いいたします。

2006年 10月 1日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)





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