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傷つけられ踏みにじられ続けて来た人生を償ってくれる支援策を  中国残留孤児福岡訴訟陳述

傷つけられ踏みにじられ続けて
来た人生を償ってくれる支援策を

   中国残留孤児福岡訴訟 原告陳述より

中国残留孤児福岡訴訟  私は1陣の原告で、今年66歳の田中早苗です。私がこの陳述で特に強調したい点は、政府から何も援助のない状況で帰国した自費帰国者の受けた苦しみや葛藤についてです。

 私の両親は、1934年に家族3人で満州に渡ったそうです。その後、長女、次男、三男、そして私が満州で生まれ、長男は1943年に、中学へ進学する為、日本に帰国しました。
 両親と死に別れた日の事は、私は幼く又あまりにも恐ろしすぎる出来事だった為か、記憶していません。しかし当時11歳だった姉の話によると、父は満州国のウランホトに住んでいた民間人1500人ほどを引率して帰国の任務を負い、葛根廟の裏山でソ連軍の戦車に砲撃を受け、沢山の人々が殺されたそうです。その時両親と2番目の兄が亡くなりました。幸運にも姉と3番目の兄と私の3人は、血の海の中から生き残りました。姉の忍は11歳、兄の旭は7歳、私は4歳でした。食べられる物は何でも食べ、濁った水でも飲んで生き延び、3人とも日本人孤児となり、それぞれ善良な中国人に養われ成長しました。
 私の養父の家はとても貧しい辺鄙な農村で、村には十数戸の家しかなく、小学校もありませんでした。9歳の時、養父は苦しい中、私を8kmも離れた学校へ通わせてくれました。当地の政府、学校、先生の援助で、小学校、中学校で学び、又、学費免除で二年間の中等専門学校で学び1961年9月、20歳の時電力学校を卒業して火力発電所に配属され働きました。1968年同じ工場の労働者と結婚して、2人の子供が生まれました。
 私は日本人であった為に、結婚でも制約を受け、文化大革命の時、調査や取調べを受け、大変辛い思いをしました。当時私は内モンゴルの少数民族の地区に住んでいて、国交回復前には日本についての情報がなく、日本がどのような状況にあるか、全く知ることはできませんでした。
 1972年、新聞を見て日本との国交回復を知りました。姉が厚生省の孤児対策室に連絡を取って、1976年に連絡の取れなかった上の兄を探し出せました。1978年上の兄の手助けのもと、1回目の肉親探しが実現できました。この時私と2人の子供は、初めて日本の国土に足を踏み入れ、美しい国土に感激しました。しかし、同時に大きな苦痛も感じました。それは「心の中で話したいことを、言葉で表現できない」という悔しさでした。感動しても、ただ涙で顔を濡らすだけでした。
 2ヶ月の肉親探しは、あっという間に過ぎ、中国に帰りました。働いていた工場では多くの同僚や友人が会いに来て、「あなた達は、また帰ってきて何をするの?日本はいいところじゃない。」と多くの人は羨ましく祝福していました。しかしある一部の人は、いつも陰で「小日本はまた戻ってきた。」と非難しました。

 肉親探しの後、永住帰国の説明や話は日本政府の人からは一切ありませんでしたが、1989年3月、姉の家族が同級生の援助の下で日本に帰国、永住しました。この事を知って私も非常に日本に帰国したいと思いました。ところが身元保証人を見つけなくてはいけないと言われ、日本の長男にお願いしましたが、なってもらえませんでした。姉は先に帰国したけれど、生活保護を受けていたのでなれませんでした。結局、保証人を見つけることができませんでした。長男は保証人になることを同意しませんでした。保証人になると、責任を負う必要があるからです。中国にいる弟や妹の3家族、1人でどうやって負担できるのでしょうか。1990年の2回目の一時帰国で親族訪問をした時、姉の知り合いの大阪市民会でボランティアをしている山田邦夫さんと知り合い、いろいろ援助してくださいました。私はこの時、帰国のルートを見つけたいと強く思っていました。15日間の滞在でしたが、この期間に私は福岡県庁の援護課に行き、私達一家が帰国できるように切実な心情をお願いしました。私と対応してくれた副課長は言いました。「あなた方のように、親族を見つけ出した孤児が帰国して定住しようとしたら、必ず親族が”身元引受人”とならなければならない・・・。」探して尋ねても、誰も身元引受人になってくれない状況でどのように帰国したらよいのでしょうか?絶望的になり、帰路大阪の山田さんに相談しました。支援を通して帰国を実現することができますかとお聞きすると、「孤児の問題は、国が責任を負うべきです。もしあなたがどうしても帰国したいのならば、一切の帰国費用を自分で負担しなければなりません。そのため、保証人の工場で働かなければなりません。」と言われました。誰でも国費で帰国したいのはヤマヤマです。しかし身元引受人に親族がなってくれなければ、国費で帰国できなかったのです。私は中国に帰り、家族と相談し、大阪市民会の支援を通して自費で帰国する決心をしました。

 1991年末、保証人の工場から30万円旅費として借り、一家4人内モンゴルの包頭市から天津港を経由して神戸に上陸しました。税関に入ったら、私達が「中国のパスポート」をもっていたので、すぐに不法入国とみなされ、大阪の入国管理局で調査を受けました。私達の携帯した物品を差し押さえられました。「審査しなければなりません、大体4ヶ月かかります。この期間は勝手に居住地を離れてはいけません。」と言われました。日本人なのに難民扱いを受けることが、とても悔しく、又苦痛でした。二日目に工場の保証人が来て、携帯した物品を受け取って工場の居住地に着きました。一家4人は、狭い1DKの工場の寮に住むことになりました。私達一家は自費帰国の為、定着促進センターに入ることできず、国からは何の援助もありませんでした。帰国費用の借金返済の為、又日々の生活の為に、調査をうけている保障先である大阪市民会が紹介した工場で働きましたが、ただ工場と寮を往復する日々でした。日本語も話せず、自費帰国者には、勉強する場所も機会も何も与えられませんでした。審査が終わり、4ヵ月後の1992年3月24日に正式に永住帰国を認められました。

 この時、家族皆で相談して、姉一家がいる福岡に定住したいと思い、又福岡県の援護課に行き、私達の状況を説明して、福岡に定住したいことを伝えました。応対した方は「あなた達の状況は、私達は調査を経て事実であることは分かります。とても同情いたします。福岡に来て定住してもいいです。しかしあなた達は生活保護を受けることはできないし、定着促進センター、自立研修センターで日本語を学ぶこともできません。住居、仕事、全て自分で解決しなければなりません。」と言われました。このような厳しい条件に対して、私達は家族で何度も話し合い、考慮してやはり福岡に定住することを決めました。大阪の工場で一生懸命に働き、食費も切りつめ、やっと借金を完済しました。
 1992年4月、大阪から福岡に来て仕事を探し、夫婦2人で浄水器の工場で働きましたが、1ヶ月2人で働きやっと11~12万円の収入でした。これでは生活できずに、夫は友人の手助けで麺を作る食品工場の仕事を見つけました。仕事を始めて1週間は、姉が傍らにいて通訳にあたりやっと固定の仕事につけました。11年間働きました。私は縫製工場でアイロンをかける仕事をしたり、ペットを育てる工場で働いたり、4年間清掃の会社で働き、2000年清掃の会社は私を解雇しました。それ以後仕事をみつけられません。

 日本に来てから、私達はとても多くの挫折に会いました。言葉が通じない、精神的、経済的なストレスなどの影響で、夫の体はだんだん悪くなり心臓病を患い動悸が激しく、癇癪を起こし、眠れなくなってしまい、しかたなく2005年7月、仕事を退職して中国に行って治療をしました。
 清掃の会社を解雇された時、私はすでに60歳でしたが、やはりまだ日本語の勉強をしたいと思いました。それで娘に電話で定着促進センターに連絡してもらいました。センターの責任者に「あなた達は帰国してすでに5年を経過しています。又自費で帰国しました。無料でセンターを利用して勉強することはできません。更に皆帰国して10年経っています。日本語がまだできないのは、頭に問題があるのではないですか。」と言われました。日本語が話せず、交流もできず、社会の仕組みもよく分からないためにやはり勉強しなければ・・・と奮起して問い合わせたのに、このような残酷な返事を聞いて、本当に大きなショックを受けました。私は日本語を話すことはできませんが日本人です。国からの援助も支援もなく、日本語を学ぶ機会も時間もなく、国費帰国者より更に厳しい条件の中で生きてきました。私が自費帰国したのは、間違いだったのでしょうか。間違いはどこですか。

 人生は本当に短いものです。私達の国家は、孤児達の一生の幸福を破壊し、生涯の尊厳を剥奪し、教育を受ける権利を遅延させました。
 姉の田中忍、兄の田中旭も残留孤児訴訟の原告です。私が訴訟に参加したのは、日本政府は半世紀以上にわたって孤児達にこのような状況を強いた責任を認め、それに対する賠償を要求するためです。現在、日本政府は孤児達に対する新しい支援策を検討していると聞いていますが、孤児達を傷つけられ踏みにじられ続けて来た人生を償ってくれる支援策が出されること、心から希望しています。しかし、支援策はこれからの私たちの生活の保障であって、これまでの償いではありません。私は、日本政府が私たちに謝罪するまで裁判を続けるつもりです。

 そして最後に、弁護士の先生方や支援者の方々は、孤児達のために尽くしてくださった苦労や努力や援助に対し心から感謝しています。
 ありがとうございました。

2007年 6月 3日 中国帰国者, 中国残留孤児 |

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