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「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

宗広有蔵さん・88歳 宗広マツさん・81歳(糸島支部)

「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

 「よく生きて帰れた、絶望もあったが人生の基礎ができた」と語る宗広さんご夫婦。希望を持って渡った旧満州で敗戦を迎え、何度も死線をさまよいましたが、中国の大地と人々に助けられ人生の指針を得て帰国。以来、半世紀もの間日中友好運動を支えて来られました。シリーズ一回目は、絶望の淵から這い上がり友好運動に熱意を込める宗広さん夫婦の人生と人柄を紹介します。

南満州鉄道に就職
翌年現地召集
 有蔵さん(十七歳)

 有蔵さんは八幡製鉄所と南満州鉄道に合格。終戦一年前の一九四四年一月、「給料が高かった」南満鉄に入社。翌年八月一日、現地招集でチチハルの技術部隊に配属。訓練期間中の九日「ソ連軍参戦」で敗戦。捕虜となり、ソ連国境の黒河の収容所に入れられます。

 一九四六年、五百キロ離れた北安に徒歩で移動。七百人いた部隊は死亡者が続出、到着したのは三百人程でした。有蔵さんも発疹チフスにかかり、病人収容所に入れられます。薬も手当てする人もなく、七百人程いた病人の中で、生き残ったのは有蔵さん含め七人。「生きる運だけが頼りだった」と当時の悲惨な状況を語ります。

生き地獄と化した開拓団
十一歳の逃避行
 マツさん

 五歳で家族と満州に渡ったマツさん。敗戦の日、逃げる時家族とはぐれますが隣村の開拓団で母と姉妹に再会。安心したのもつかの間、地獄の逃避行が始まります。

 頼りになる「兵隊さん」は鬼の軍隊、「絶対服従」は開拓団員にも強制されました。「泣く子は殺せ」の命令が下り四歳の妹も犠牲に、たどり着いた収容所は栄養失調・伝染病で死体の山でした。

 母もなくなり中国人の家に引き取られます。二年後、十三歳の時解放軍の看護婦になった姉が探しに来てくれ、解放軍の保母として働くことになります。

鶴岡炭鉱で社会主義を学習

 待ち望んだ帰国列車が内戦の混乱で進めず鶴岡炭鉱に運ばれた有蔵さん達。帰国の望みを絶たれた中で五年間機械設計の仕事をします。そこで社会主義を学ぶ仲間と出会います。一週間に一度の学習会では社会の仕組みや人民が主人公であることを学び、「目からうろこが落ちる」日々でした。

 一九四九年十月一日、中華人民共和国が建国。人民の国ができ、そのために働けることに感動しました。二千人いた同僚から有蔵さん含め数十人が選抜され、北京の人民大学で学ぶことになります。奥さんのマツさんは人民大学の保母さんでした。知り合った二人は仲間に祝福され結婚します。

帰国後、友好運動に全力
糸島支部を創立

 一九五八年に帰国した宗広さん夫婦。早速、友好運動に参加、中国との国交正常化直後の一九九九年9月、糸島協議会(その後支部)を創立します。

 「中国への信頼はゆるぎない。『日中友好』の一点で楽しく、おおらかに、しなやかな運動が大事」と語る二人です。

 

2015年 5月 31日 交流, 糸島支部 |

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