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ゆっくり登ろう会 第106回例会  大船山 (1,786m) 北大船山 (1,706m) 登山 10月17日(土)~18日(日)

2015.9.6. ゆっくり登ろう会 会報No.106

第106回例会 大船山1,786m 北船山1,706m 登山
ゆっくり登ろう会 第106回例会  大船山 (1,786m) 北大船山 (1,706m) 登山 10月17日(土)~18日(日)

    記
1.日時 10月17日(土)~18日(日)
2.集合 福岡市天神 日銀前
      12時00分
3.費用 22,000円
4.申込期限 10月4日(日)
5.申込先 栁まで電話、FAX、メールで
電話 092-892-6089
携帯 090-2500-6140
5.宿 法華院温泉山荘
電話090-4980-2810

 スタートは吉部で、暮雨の滝コースで坊ガツルに入り、法華院温泉に一泊します。
 翌日大船山、北大船山に登ります。
 山頂には御池(みいけ)があり、その周りの素晴らしい紅葉を見ることができるでしょう。
 下山して坊ガツル、大船林道を経て吉部に戻ります。
 2日目は長時間になりますので、事前のトレーニングをお願いします。
 (くじゅうサミット10の登山も兼ねています。)

スケジュール
<第1日目>
 日銀前12:00⇒吉部14:30⇒ 法華院温泉17:00⇒温泉泊⇒夕食18:00
<第2日目>
 起床5:30⇒朝食6:30⇒登山7:00⇒山頂10:00⇒昼食1時間⇒下山11:00⇒北大船山⇒坊ガツル14:00⇒休憩0:30⇒出発14:30⇒吉部17:30⇒日銀前19:30
(帰りが遅くなります)

ゆっくり登ろう会 第106回例会  大船山 (1,786m) 北大船山 (1,706m) 登山 10月17日(土)~18日(日)




2015年 9月 16日 ゆっくり登ろう会 | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑤  帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力   木村琴江さん

帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力
人生に友好の歴史あり⑤   木村琴江さん

 二十九年前、43歳で帰国した木村さん。 当時、残留孤児など中国帰国者のほとんどは日本語が話せず、職場や地域社会で孤立。 お互いどんな生活をしているかわからない状況でした。 当時、ハンセン病問題で元患者さんたちが立ち上がり、国に勝利して制度改善を勝ち取ったことを知った木村さんは、「自分たちが置かれた現状を変えよう」と帰国者の会」を立ち上げ運動を開始。 全国で集団訴訟を取組み、やがて帰国者支援法を成立させます。

人生に友好の歴史あり⑤  帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力   木村琴江さん
 穏やかな表情にも苦難
を生き抜いてきた強さを
秘めた木村琴江さん

二歳半で残留孤児に「この
子だけでも」と母が哀願
 両親は青森県出身、家族全員で開拓団として満州国間島省琿春県(当時)へ。
 そこで木村さんは誕生、父親はシベリアに出征します。

 一九四五年八月九日、ソ連軍が参戦、母親は幼な子七人を連れて逃避行。
 西太廟難民収容所で母親は、王世代という中国人に「子どもを抱えて食べ物もなく、私も病気で死ぬのを待つだけです。どうかこの二歳半になる女の子(琴江さん)だけでも連れて行って助けて下さい」と泣いて頼みます。
 王さん宅も子供がたくさんいたので妹の于さん宅に引き取られ、于秀琴と名付けて育てられます。

養父が病床で「日本人だか
ら将来帰国を」と告げる
 幼い頃、周りの人から「小日本鬼子」といじめられた琴江さん。
 養父母は日本人であることを明かさず愛情を注いで育てます。
 小学校を卒業後、十六歳で働きだしたころ、養父が病床で「お前は中国人ではない。
 日本人だから大きくなったら故郷へ帰ってみなさい」と告げられ、引き取られた経緯を知ることに。
 十九歳で結婚、一男三女をもうけます。
 国交回復後の一九七三年、中国の公安局から調査を受け「日本人孤児」として登録されます。

二十九年前、43歳で帰国
中華料理「帰郷」を開店
 一九八六年九月一九日、身元は未判明のまま家族全員で帰国。
 母国に帰れた喜びもつかの間、言葉は通じず体調を壊し病気に、二年間生活保護を受けます。
 自立しようと努力の末、小さな中華料理店を福岡市東区箱崎に開店。
 店名は「帰郷」。 見知らぬ両親の母国に帰れた喜び、ここを拠点にこれからの人生を強く生き抜く気持ちを込めた店名です。

60歳で「帰国者の会」立ち
上げ「支援法」制定へ全力
 「九州の帰国者の会には百四十人以上います。高齢で日本語をほとんど話せず生活保護を受けて最低限の生活、老後が不安です。『支援法制定』に日中友好協会や弁護士の方が支援してくれ感謝に絶えません。日本人として当たり前の生活がしたい。これからも運動を続けます」九州地区・福岡県中国帰国者の会会長、協会福岡支部理事を務める木村琴江さんです。

2015年 9月 12日 人生に友好の歴史あり, 中国帰国者 | | コメント (0) | トラックバック (0)

第3回日中友好  囲碁大会  10月4日(日)  福岡日中文化センター 

第3回日中友好  囲碁大会  10月4日(日)  福岡日中文化センター 

ダウンロード igo_2015_1.pdf (742.6K)

2015年 9月 8日 イベント, 交流, 日中文化講座 | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり④  養父母の愛 中国で教師に  ~「祖国は二つ」友好は生涯の願い~  川添緋沙子さん

養父母の愛 中国で教師

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「祖国は二つ」友好は生涯の願い

川添緋沙子さん 福岡(七十九歳)

 「私の祖国は二つ、戦後七十年の今、心から友好を願っています」
 九歳の時、戦後の逃避行で父母は他界。 旧満州ハルピンで残留孤児になった川添さんは養父に助けられ九死に一生を得ます。
 養父母の愛情を受けながら必死で中国語を覚え、師範学校を首席で卒業。 小・中・高の教師を務め、四十七歳で帰国。
 日本語を習得し帰国者支援に生涯をかける生き方には「友好平和」を願う強い信念があります。


家族五人で逃避行、両親は
収容所で死亡、残留孤児に

 川添さんの故郷は佐賀県唐津市北波多町。
 郵便局員の父は転勤で旧満州の延吉市に、そこで出生します。

 昭和二十年八月、父は郵便配達中にソ連の空爆に遭遇。
 当時九歳(小三)の川添さん、二人の妹と両親、一家五人の逃避行が始まります。
 草や木の根を生のまま食べ、夜は木の下で寝ました。
 ソ連軍に遭遇し牡丹江の収容所に、母はそこで出産し死亡。
 赤ちゃん(妹)は中国人に引き取られます。
 その後移されたハルピンの収容所で父も息を引き取りました。

餓死寸前、養父に救わ
れ九死に一生を得る

 飢えと寒さで餓死寸前、亡くなった父親を立って見送ることもできませんでした。
 その日の夜、「まだ生きている」と中国人五・六人が探しに来てくれました。
 父が亡くなる直前、中国の友人に川添さんたち姉妹のことを頼んでくれていたのです。
 妹も他の中国人に引き取られて行きました。

「言葉の壁だけでなく
人生の壁も乗り越えな
ければ」

 養父は仕事でハルピンに単身赴任で来ていました。
 男手ひとつで川添さんを育て「早く元気になって学校に行きなさい」と励ましました。
 「これから中国人と暮らす、言葉の壁を乗り越えなければ」と必死で中国語を覚えます。

 養父は「お前の命を救ったのは、老後の面倒を見てもらうためではない。 社会に役立つ、立派な人間になってほしいからだ」と励まします。
 養父も若いころ日本人に助けられた経験がありました。

 新中国誕生の年、十三歳の川添さんは試験を受け、国語・算数とも百点で夜間学校に入学。
 その後養父の仕事で故郷に帰り山東省立師範学校に入学。
 卒業後、小学校・中学校・高校の教師を務めます。

四十七歳で帰国、協会
と出会い帰国者支援運
動に全力

 「『戦死者』として戸籍が抹消されパスポートが取れない上、身元保証人の問題もあり、なかなか帰国できませんでした。 帰国してからは日本語ができず壁にぶつかりました。 必死で日本語を覚え、家族や生活のことで支援してくれたのが日中友好協会です」と語る川添さん。
 帰国者の会事務局長として活動する姿には、「二つの祖国の平和友好」を願う信念が満ち溢れています。

 

2015年 9月 1日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)





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