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人生に友好の歴史あり④  養父母の愛 中国で教師に  ~「祖国は二つ」友好は生涯の願い~  川添緋沙子さん

養父母の愛 中国で教師

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「祖国は二つ」友好は生涯の願い

川添緋沙子さん 福岡(七十九歳)

 「私の祖国は二つ、戦後七十年の今、心から友好を願っています」
 九歳の時、戦後の逃避行で父母は他界。 旧満州ハルピンで残留孤児になった川添さんは養父に助けられ九死に一生を得ます。
 養父母の愛情を受けながら必死で中国語を覚え、師範学校を首席で卒業。 小・中・高の教師を務め、四十七歳で帰国。
 日本語を習得し帰国者支援に生涯をかける生き方には「友好平和」を願う強い信念があります。


家族五人で逃避行、両親は
収容所で死亡、残留孤児に

 川添さんの故郷は佐賀県唐津市北波多町。
 郵便局員の父は転勤で旧満州の延吉市に、そこで出生します。

 昭和二十年八月、父は郵便配達中にソ連の空爆に遭遇。
 当時九歳(小三)の川添さん、二人の妹と両親、一家五人の逃避行が始まります。
 草や木の根を生のまま食べ、夜は木の下で寝ました。
 ソ連軍に遭遇し牡丹江の収容所に、母はそこで出産し死亡。
 赤ちゃん(妹)は中国人に引き取られます。
 その後移されたハルピンの収容所で父も息を引き取りました。

餓死寸前、養父に救わ
れ九死に一生を得る

 飢えと寒さで餓死寸前、亡くなった父親を立って見送ることもできませんでした。
 その日の夜、「まだ生きている」と中国人五・六人が探しに来てくれました。
 父が亡くなる直前、中国の友人に川添さんたち姉妹のことを頼んでくれていたのです。
 妹も他の中国人に引き取られて行きました。

「言葉の壁だけでなく
人生の壁も乗り越えな
ければ」

 養父は仕事でハルピンに単身赴任で来ていました。
 男手ひとつで川添さんを育て「早く元気になって学校に行きなさい」と励ましました。
 「これから中国人と暮らす、言葉の壁を乗り越えなければ」と必死で中国語を覚えます。

 養父は「お前の命を救ったのは、老後の面倒を見てもらうためではない。 社会に役立つ、立派な人間になってほしいからだ」と励まします。
 養父も若いころ日本人に助けられた経験がありました。

 新中国誕生の年、十三歳の川添さんは試験を受け、国語・算数とも百点で夜間学校に入学。
 その後養父の仕事で故郷に帰り山東省立師範学校に入学。
 卒業後、小学校・中学校・高校の教師を務めます。

四十七歳で帰国、協会
と出会い帰国者支援運
動に全力

 「『戦死者』として戸籍が抹消されパスポートが取れない上、身元保証人の問題もあり、なかなか帰国できませんでした。 帰国してからは日本語ができず壁にぶつかりました。 必死で日本語を覚え、家族や生活のことで支援してくれたのが日中友好協会です」と語る川添さん。
 帰国者の会事務局長として活動する姿には、「二つの祖国の平和友好」を願う信念が満ち溢れています。

 

2015年 9月 1日 中国帰国者, 中国残留孤児 |

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