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人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

国語教師との出会いがきっかけ

 「戦後のレッドパージで職を奪われ、佐賀県唐津から妻の叔父を頼って田川に来た時は心細かった。
 持ち物は布団一組と米一升」当時二十歳過ぎの松枝さん夫婦にとって田川での生活はゼロからのスタート。
 ガリ版印刷の技術を生かし、すぐに印刷屋を始めます。「この地で生き抜く」覚悟を決めた松枝さん、友好運動の推進や田川民主商工会の結成など、旧産炭地にまかれた一粒の種が芽吹き、今日大きく発展。
 おだやかで誠実な人柄を紹介します。

 一九二九(昭和四)年、佐賀県生まれの松枝さんは終戦当時、工業高校生。
 国語の岡正芳先生との出会いが社会を見る目を持つきっかけになりました。
 戦争の悲惨さや戦後の荒廃を目の当たりにし、不再戦を誓い社会を変えていく生き方を求めるようになります。

杵島炭鉱の労組書記に
結婚 そしてレッドパージ

 高校卒業後、駅弁屋で働き折尾駅でキャンデー売りをします。
 駅弁屋の二階にあった産別会議(当時の労働組合総連合)事務所の方と知り合いになり、ガリ版切(謄写版での印刷方法)が得意だった松枝さんは紹介で上京。港区の港生協で働きます。

 二十歳のころ帰郷。杵島炭鉱大鶴鉱業所(佐賀県唐津市肥前町)の労働組合で書記として働き、その頃、選炭婦をしていたミチヨさんと知り合い結婚。
 新婚生活もつかの間、アメリカ占領軍の命によるレッドパージによって松枝さんを追い出すため、会社側はミチヨさんを同調者として解雇。

 炭鉱を追われた松枝さん夫婦は、夫人の伯父を頼って田川に。
 持っていたのは布団一組と一升ばかりの米だけでした。

田川で印刷業スタート
献身的に友好平和運動

 謄写版印刷で開始、三年目でやっと商売も軌道に乗り始めました。
 タイプ印刷機からオフセット印刷機、写植機と印刷機も徐々に増えていきました。

 学校関係の文書や文化雑誌の印刷、三井田川鉱業所からの注文など仕事も増え、同業者と「田川印刷工業協同組合」を設立しました。田川民主商工会も創立。
 子供会の会長や診療所の健康友の会会長、公民館館長なども務めました。
 日中友好協会田川支部の創立にも尽力。
 当時からの健在者は、今では一番ヶ瀬さんと松枝さんの二人だけです。

 友好運動に力を注ぎ、一番ヶ瀬さん(現県連会長)や仲間と「日中不再戦の碑」や「強制連行殉難者の碑」を建立。
 特技を生かし、集会などの垂れ幕、式次第など毛筆で書くことは一手に引き受けています。
 また30年間会計監査を担当してきました。

「絵画と書」歴三十六年
学習意欲に衰えなし

 幼少のころから絵が得意だった松枝さんは五十歳から日展会友の江田茂人氏(故人)に師事し、本格的な油絵の勉強を始めます。
 学び始めるころ知人に相談すると「五十過ぎて今さら」と反対されましたが意思は変わりません。
 水彩画は独学で習得。同時に書の勉強も奥さんと一緒に始め、千鳥橋病院の新館に北アルプスを描いた500号の油絵を寄贈。

 半世紀以上の平和運動と社会貢献、芸術活動に情熱を注ぐ生き方は後に続く多くの方に感銘と生きる指針を与えています。

2016年 1月 23日 人生に友好の歴史あり |

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