真実求め半世紀 岩佐英樹さん(玄界灘・74歳) ~人生に友好の歴史あり⑦~
「三菱勝田炭鉱大谷坑(糟屋郡宇美町)には終戦一年前、中国から三百五十二人が強制連行されました。終戦も知らされずに危険な坑内労働を強いられ、四分の一の八十七名が死亡しています」。時折、玄界灘に視線をやりながら静かに語る岩佐英樹さん(現県連副会長・玄界灘支部事務局長)。穏やかな表情の中にも歴史の真実を見極める強固な意思と犠牲者へのやさしい心情があふれています。高校教師を務めながら半世紀以上も日中友好運動に関わってこられた人柄を紹介します。 |
南海大地震の津波を経験
一九四一(昭和16)年、徳島県椿泊村生まれの岩佐さん。戦後間もない五歳の頃、相次ぐ不幸に見舞われます。小学校教師だった父親が盲腸から腹膜炎を併発し他界。津波に襲われた時は叔母に抱かれて逃げ、九死に一生を得ます。
十三歳の頃、親類の人々と一緒に当時、以西底引き網漁業の拠点だった福岡市の港町に移住します。
の一言で中国に関心抱く
舞鶴中学に入学、母親は看護婦として済生会病院に勤務、頼りにしている親類は漁師として働く生活が始まりました。
当時、中国は東シナ海沿岸に「華東ライン」を設けていました。付近を操業していた伯父たちが中国側に拿捕されるという事件が起きます。
一年後、帰国した伯父は「中国側の対応は親切。建国の喜びにあふれ民族独立や平和の素晴らしさを学んだ」と語り、その一言が岩佐さんの生き方を方向づけます。
修学旅行で生徒と共に
中国へ
北九州大学の中国科で学び社会科の高校教師に。一九八八年、宇美商業高校は県下で初めて中国へ修学旅行、中国についての特別授業も行い生徒を引率。社研部の顧問も定年まで担当します。
一九九三年、NHKが「華人労務者就労顛末報告書」の存在を大スクープ。これは戦後、外務省が全国百三十五の事業所から強制労働の実態を報告させたもので長年政府が秘匿していました。
ライフワークに
一九九五年、岩佐さんは社研部員と上京、東京華僑総会を訪ね、三菱勝田大谷坑の「同報告書」を入手します。
一九九八年、大谷坑の犠牲者四十七名の遺族に「アンケート」を送付。一通だけ返事があり、はじめて中国の犠牲者遺族と連絡が取れました。
「大谷坑では中国人労働者が敗戦を知り一斉蜂起した事実もわかってきました。これらの歴史を正しく伝え、友好運動に貢献したい」と熱く語る岩佐さんです。
2016年 1月 30日 中国人強制連行・強制労働事件玄界灘支部 人生に友好の歴史あり | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)