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人生に友好の歴史あり⑱  「出会い・留学 人生の指針に」  野田一好さん (久留米・筑後支部事務局長)

人生に友好の歴史あり⑱  「出会い・留学 人生の指針に」  野田一好さん  (久留米・筑後支部事務局長)

 

 

 

人生に友好の歴史あり⑱  「出会い・留学 人生の指針に」  野田一好さん  (久留米・筑後支部事務局長)

 

  「中国の大地に立ち、空気を吸い、交流すること。中国の人は一見よそよそしいが情が深く平和を望んでいる」。 自ら体験して語る言葉には含蓄があります。
 37年間、国語の高校教師を務めながら日中友好運動にかかわってきた野田一好さん。
 その生き方を30年以上貫いた背景には、笠実さん(元県連常任理事・全国理事、故人)との貴重な出会いと中国留学の経験があります。
 中国人強制連行慰霊碑の建立や慰霊祭に協力し、若い留学生との「草の根交流」を進める野田さんを紹介します。

 


人生に友好の歴史あり⑱  「出会い・留学 人生の指針に」  野田一好さん  (久留米・筑後支部事務局長)
「中国人留学生と
の交流が楽しみ」
と語る野田さん

 

 


高校教師在任中 京劇・白毛女
に感動 協会に入会
 野田さんは1942年1月、八女郡広川町で出生。 地元の高校卒業後、広島大学に進学。
 国語教育学を学ぶ一方、原爆の恐怖に触れます。 数年間、広島の高校で教鞭を執った後、西宮の高校に転勤。

 

 72年の日中国交回復の頃、京劇の「白毛女」などを鑑賞、中国語サークルに参加します。
 福岡県の高校に戻り、日中友好の機運が高まる中、協会に入会。
 中国から筑後市の縫製会社に来た若い研修生たちへ日本語を教えたりしました。

 


草創期に貢献された笠実
さんとの出会いが転機に
 79年(昭和54)、黒木高校在任時、友好運動を通じて笠実さんと出会います。 野田さん37歳、笠さん73歳の時でした。

 

 久留米出身の笠さんは39年(昭和14)、北支方面軍の宣撫官として従軍。 敗戦後、撫順戦犯管理所に収容されます。
 そこでは、自己告白による「認罪」という教育方針が執られました。 「鬼から人間へ」と生まれ変わり、11年間の禁固刑満了により釈放され、61年に帰還。 草創期の日中友好運動に貢献されました。
 「笠先生との出会いは、日中不再戦・平和友好の生き方に確信を与えてくれました。戦犯を人間として扱う中国側の真摯な態度を聞き敬服しました」

 


二年半 中国に語学留学
偏見無くし 交流に確信
 退職後二年半、上海大学と上海体育学院に語学留学します。
 「留学中、かつて軍国主義者が行った侵略行為で批判されることはありませんでした。情が深く、先祖を大事にする中国の人々の態度に偏見がなくなり、多面的に物事を見れるようになりました」

 


留学生と交流「将来、中国の
指導者に」と期待込め
 久留米大学の中国人留学生との交流は10年以上に、映画会を催したり、留学生が中心となって行う春節の会や大学合同の忘年会に支部として参加します。
 日本の文化を紹介しようと「大地の子」や武士の一分」などを上映しました。

 

 「中国の若い人との交流を大事にしたい。日本の文化や考え方を理解し、将来国の指導者になってくれることが楽しみです」と嬉しそうに語る野田さんです。



 

 

2016年 10月 3日 中国人強制連行・強制労働事件久留米筑後支部 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑯  「帰国者の純真さに心打たれた」 ~残留孤児支援に尽力~ 福岡南法律事務所 椛島 敏雅さん (福岡・68歳)

人生に友好の歴史あり⑯  「帰国者の純真さに心打たれた」 ~残留孤児支援に尽力~ 福岡南法律事務所  椛島 敏雅さん  (福岡・68歳)



人生に友好の歴史あり⑯  「帰国者の純真さに心打たれた」 ~残留孤児支援に尽力~ 福岡南法律事務所  椛島 敏雅さん  (福岡・68歳)

 

 「『会社にも人権がある』と労働者への思想差別をしている幹部の発言が、法律の勉強を始めたきっかけ」と語る椛島敏雅さん。
 高卒後就職した中部電力(名古屋)で思想差別を経験。弁護士をめざし22歳で退職。尊敬していた先輩から「8時間働いていたんだから最低8時間は勉強しなさい」と励まされます。
 帰福後、新聞配達をしながら通信教育で勉強。29歳で司法試験に合格、「強い者の味方だけはしたくない」とクレジット・サラ金被害者救済や帰国者支援に尽力された人生を紹介します。

 

人生に友好の歴史あり⑯  「帰国者の純真さに心打たれた」 ~残留孤児支援に尽力~ 福岡南法律事務所  椛島 敏雅さん  (福岡・68歳)


甲子園初出場・初優勝の
三池工業高校を卒業

 椛島さんは1947(昭和22)年10月、柳川で出生。三池工業高校電気科で学びます。在学中に同校野球部が夏の甲子園大会に初出場し初優勝。その活躍は疲弊していた旧産炭地の人々に元気をもたらしました。

 


中部電力での思想差別
弁護士めざすきっかけに

 高卒後、中部電力(株)に就職。愛知県の知多火力発電所でアメリカ製発電プラントの運転勤務、一日三交代でした。
 60年代後半、鉄鋼や電力など当時の基幹産業では職場の民主化を求める労働者に対し、様々な思想攻撃が行われていました。
 椛島さんも上司に呼び出され「民青や労音には入るな、誰それとは付き合うな、彼らは発電所を止めようとしている。会社にも人権がある」と言われ、活動家のあぶり出しに遭遇。上司の強要を断りました。
 自分に学問のないことを痛感し、早速「人権とは何か」という本を精読。これが弁護士をめざすきっかけとなりました。

 


友好協会が100万署名
「帰国者支援法」を実現
 32歳で弁護士登録。故諌山博弁護士の福岡第一法律事務所に入所、日中友好協会にも加入します。
 2004年から「中国残留孤児福岡訴訟弁護団」事務局長として帰国者支援に尽力。全国15か所で集団訴訟、協会は百万署名に取り組み支援。
 07年12月「新支援法」を成立させ国と和解します。

 「開拓団の人々は、国の『王道楽土』建設の呼びかけで関東軍の盾としてソ満国境に送り込まれ戦争の犠牲に。終戦後は『現地土着方針』で置き去りにされ、遅れて帰国した孤児たちは言葉の壁や生活苦に苛まれています。手厚い保護は当然」と語ります。

 


日本文化のルーツは中国
日中不再戦は人生の道標

 「中国人養父母の慈愛の深さと艱難辛苦を体験している帰国者の純真さに多くのことを学びました。中国あっての日本文化の発展、日中友好と不再戦は人生の道標」と語る椛島敏雅さんです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年 7月 10日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑮  「揺るがぬ交流の歴史 泰然と」 ~「文革」時も信念まげず~ 小沢 和秋さん (八幡・84歳)

人生に友好の歴史あり⑮  「揺るがぬ交流の歴史 泰然と」 ~「文革」時も信念まげず~ 小沢 和秋さん (八幡・84歳)

人生に友好の歴史あり⑮  「揺るがぬ交流の歴史 泰然と」 ~「文革」時も信念まげず~ 小沢 和秋さん (八幡・84歳)
小沢 和秋さん
(八幡・84歳)

友好・革新運動に貢献 60年

 「毎日30分以上歩き、エレベーター等は使いません。革新運動には健康体が大事です」さっそうと歩く姿に年齢は感じさせません。
 24歳から八幡製鉄所の労組役員、31歳(1963年)から県会議員を三期、49歳(1980年)から72歳(2003年)まで衆議院議員を通算四期務めた小沢さんは、協会福岡県連初期からの会員です。
 戦後日本の革新と平和、友好運動に全力を傾注し、「文革」時の混乱と分裂を体験した生き証人です。友好協会の「宝」とも言える小沢和秋さんの人生を紹介します。

人生に友好の歴史あり⑮  「揺るがぬ交流の歴史 泰然と」 ~「文革」時も信念まげず~ 小沢 和秋さん (八幡・84歳)

大学でレッドパージ反対
闘争、ストライキで阻止
 小沢さんは1931(昭和6)年9月15日愛知県稲沢市で出生。三日後には中国侵略の糸口となった柳条湖事件が勃発します。
 子供がいなかった伯父さんの養子となり、東京で育ちます。
 東京大学法学部へ進み、一年生の時にレッドパージに直面。民主的な教授が大学を追放されそうになり、小沢さんたちは学生ストライキで抵抗。闘いは全国の大学に広がりパージをくい止めました。

山田洋次監督は同期生
不破哲三さんは2年先輩
共に鉄鋼関連の組合運動
 不破哲三(共産党中央委員会前議長)さんは同じ大学の二年先輩。卒業後不破さんは鉄鋼労連書記局、小沢さんは八幡製鉄所(現新日鉄)に就職。組合役員になります。
 戦後日本の基幹産業の労働運動は鉄鋼労連や炭労、国労が中心部隊でした。二人は東京と北九州で共に鉄鋼労働者の権利や立場を守る為に活動します。

新中国建国に膨らむ期待
「文革」で役員から排除
 1961年、五つの市が合併して北九州市に、革新吉田市長が誕生します。
 1966年、吉田市長が中国に働きかけ「中国展覧会」開催を決定。成功に向けて「協力会」が発足し、要請を受けた県連は、常任理事の小沢さんら数人の役員を派遣します。

 6月、中国で「文化大革命」が勃発。誤った路線が持ち込まれ、正常化に努力する小沢さんたちは「協力会」から排除されます。
 「新中国の建国に喜びを感じ発展に期待していた頃。八幡支部も分裂し会員が激減した」と語ります。

「不再戦の誓い」が原点
腰を据えた友好運動を
 「侵略戦争で中国の人々に多大な損害を与えました。償いのためにも友好は大切、日中不再戦は私の心からの願いです。数千年の交流の歴史と中国から文化を取り入れたことは事実。健全な認識を持ち腰を据えた友好運動が大事…」 困難を乗り越えた小沢和秋さんの言葉には千金の重みがあります。

2016年 7月 3日 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑭  弁護士活動・友好運動 共に半世紀 ~困難期に会長16年~ 林健一郎さん (福岡・80歳)

人生に友好の歴史あり⑭  弁護士活動・友好運動 共に半世紀 ~困難期に会長16年~ 林健一郎さん (福岡・80歳)


人生に友好の歴史あり⑭  弁護士活動・友好運動 共に半世紀 ~困難期に会長16年~ 林健一郎さん (福岡・80歳))
人生に友好の歴史あり⑭  弁護士活動・友好運動 共に半世紀 ~困難期に会長16年~ 林健一郎さん (福岡・80歳))

 

 

 

 何事も困難な時に引き受けるのは勇気が必要。 戦後スタートした日中国交回復運動。 今日まで66年間の道のりは平たんではありませんでした。
 60年代「文革」の勃発とそれを支持しなかった友好協会への攻撃や妨害が続き、中国側から関係断絶を宣言されました。
 72年、国交は回復しても事態は継続。 中国側が「文革」の誤りを認め「協会」への反省を表明した99年までは冬の時代。
 その間82年から98年までの16年間、福岡県連会長を務めた林健一郎さん。
 困難な時期、先頭に立って皆を励まし牽引した人生を紹介します。
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伯父の勧めで弁護士に
日中友好協会に加入

 

 林健一郎さんは1935(昭和10)年、福岡市の旧荒戸町で出生。
 九州大学経済学部を卒業しましたが仕事がなく裁判官をしていた伯父の勧めで弁護士をめざします。
 弁護士登録は30歳、福岡第一法律事務所に所属し沖縄返還同盟福岡支部長としても尽力。 72年に沖縄の祖国復帰が実現します。

 

福岡市長選に立候補
九州総評弁護団で幹事長

 

 80年、45歳の時、市長選に立候補。 市政革新を願う幅広い知識人や団体・個人・政党を結集した「福岡市政をよくする市民の会」を結成しての選挙運動でした。

 その後福岡第一法律事務所から独立し「林法律事務所」を開設。
 当時は高度経済成長と共に国労解体など、職場に合理化の嵐が吹き荒れた時代。 林さんは九州総評弁護団幹事長や国家公務員労働組合・高校や私立学校など、各教職員組合の顧問として労働問題の解決に奔走します。

 


交流ない時期に会長就任
「聖戦碑」抗議運動を推進

 

 82年、要請を受け県連第22回定期大会で会長に。 国交は回復していたとはいえ中国側と協会は関係が断絶していた時代です。

 林会長は新年のあいさつで「腰を落ち着けじっくりと…」と会員に呼びかけました。
 この時期日中文化センターも発足、交流がなくても中国の文化に親しみ理解を深めようと、きり絵や書道・静吟、太極拳など多彩な文化活動が広がりました。
 中国帰国者への援助や国会請願署名にもとりくみました。
 福岡市内の旧陸軍墓地(国有地)に「大東亜戦争は聖なる戦い」と侵略戦争を美化する慰霊碑が建立されている問題が発覚。 協会は碑文の書き換えを求め、福岡市に要請。 マスコミや国会でも取り上げられました。

 


広州のテレビ局が取材
友好・交流 回復の兆しに

 

 中国側と協会の交流が回復する直前、広州のテレビ局が林さんを取材。 協会が取り組む日中友好運動の内容が中国で放映されました。

 長江の如く滔々と流れる友好運動の歴史には未来があります。
 冬の時代に尽力された林健一郎さんの人生は深く刻まれるでしょう。

 

 

 

2016年 6月 16日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑬  命と平和守り 50年 ~県連会長10年 運動の先頭に~ 武田 正勝さん (福岡・80歳)

人生に友好の歴史あり⑬  命と平和守り 50年 ~県連会長10年 運動の先頭に~ 武田 正勝さん  (福岡・80歳)


人生に友好の歴史あり⑬  命と平和守り 50年 ~県連会長10年 運動の先頭に~ 武田 正勝さん  (福岡・80歳)
人生に友好の歴史あり⑬  命と平和守り 50年 ~県連会長10年 運動の先頭に~ 武田 正勝さん  (福岡・80歳)

県連会長10年
運動の先頭に

 

 「2・26事件の10日前に生まれ、終戦の時は9歳。
 長崎に原爆が落とされた8月9日、故郷の串木野も空爆され町は全壊しました」病院の応接室で静かに語る武田正勝さん(80歳・元県連会長・武田病院会長)。
 出生時や終戦時の出来事は、医師として人命を守る傍ら、帰国者支援や日中友好運動にかかわり福岡県連会長を務めた人生を方向づけたようです。
 様々な出来事に真正面からかかわり、真実を求めてきた人生を紹介します。

三代目の医師業継ぎ
中国で針麻酔を習得

 

 武田さんの生家は鹿児島県串木野市で代々続く医院。
 初代の祖父武田平九郎さんが明治初めに小児科の医師として開業しました。

 長崎大学医学部を卒業後、九大病院に外科医として勤務。 一時、串木野に帰り医院を引き継ぎました。
 福岡に戻り55歳の時、武田病院を開院します。

 ニクソン大統領が訪中、日中国交が回復した1972年当時、中国の針麻酔術が紹介されます。
 さっそく医療研究のため知人と上海へ、華東病院や療養施設で学びました。

 通訳で日本語教授の金正林氏から「日本語の教科書が不足している」と聞き、帰国後呼びかけます。
 飯塚の教職員組合から大量の教科書を寄贈してもらい、大阪の中国領事館を通じて送付しました。

残留孤児の報道見て
帰国者の身元引受人
 中国残留孤児の帰国が開始された1980年当時、西日本新聞で「身元引受人」を募る記事を見た武田さんは早速名乗り出ます。
 九州ではただ一人。上京し帰国者の金さん一家と面会。福岡での住居の確保や職業を世話しました。

「戦争展」成功に全力
協会で近現代史を学ぶ
 開院後、保険医協会の会長を務め平和運動にもかかわります。
 長崎大出身の先輩が731部隊の細菌戦に医師として関わったことを知らされ、日中戦争とはどんなものだったかと自問自答。
 65歳の時、日中友好協会で岩佐英樹氏(現県連副会長)が講義する「中国近現代史」の学習会に参加。
 以後、保険医協会や友好協会が中心となった「平和のための戦争展」の開催に尽力しました。

会長引き受け、文化
行事成功の先頭に
 2003年、67歳の時要請され会長に。
 以後協会の様々な諸運動の先頭に立ち、前進座や中国の楽団・京劇の公演などにはチケット代をカンパ、帰国者の方を招待しました。
 「中国には奥深い文化がある。それらを受け入れ今日の日本があるのも事実。 友好と平和を願う活動は生涯の仕事」と語る武田さんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年 6月 2日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑫  「樹木医」の経験生かしサークル活動 ~自然を愛し 友好運動25年~ 岡野昌明さん (筑紫・81歳)

人生に友好の歴史あり⑫  「樹木医」の経験生かしサークル活動 ~自然を愛し 友好運動25年~ 岡野昌明さん  (筑紫・81歳)

人生に友好の歴史あり⑫  「樹木医」の経験生かしサークル活動 ~自然を愛し 友好運動25年~ 岡野昌明さん  (筑紫・81歳)

「樹木医」の経験生
かしサークル活動


 「お酒を飲まずにもっと勉強しておけばよかった」とは謙遜の弁。 天然痘にかかり病弱だった少年時代は学校も休学続きの岡野昌明さん(81歳・筑紫副支部長)。
 青年時代は福岡県庁の農林事務所職員として山林を歩き回り、植林や伐採・搬出業務をこなしました。
 退職前に猛勉強して全国初の「樹木医試験」に合格。 退職後は「自然を楽しむ会」の会長としてそれまでの知識と経験を活かし、友好運動に情熱を注いで来られた人生を紹介します。

人生に友好の歴史あり⑫  「樹木医」の経験生かしサークル活動 ~自然を愛し 友好運動25年~ 岡野昌明さん  (筑紫・81歳) 

病弱でも自然の中で
遊び廻った少年時代

 岡野昌明さんは鳥取市生まれ、父親は鉄道員、母親は看護婦さんでした。 三人兄弟の長兄です。
 家の周りは森や林など自然がいっぱい。 近所の子どもたちと樫の実やぐみなど季節ごとの木の実を取って遊びまわりました。
 終戦時は11歳、新制中学から高校、鳥取大学農学部林科で学びました。

福岡県林務部職員に
森林管理の技術指導

 福岡県職員の試験を受けるため仲間10人で夜行列車に乗り福岡へ、合格し県林務部職員として八幡農林事務所で働くことになります。
 県有林や民有林の植林や管理、伐採、搬出など森林組合の方々と一緒に働き、技術指導をします。
 1960年代(昭和30年代)、作業用の車はなく現場までバイクで行き、徒歩で山間部を回る毎日でした。
 独学で林業専門技術員や測量士の資格も取得します。
 当時の森林労働者には退職金制度がなかったので、県費助成の退職金制度を実現しました。

「樹木医試験」に合格、
「中国の緑化」も研究

 本庁勤務に替わり、森林組合の経営や病害虫の予防指導、鳥獣保護などに携わります。
 仕事で得た知識を活かし「福岡県の野鳥」などの著書を編集、県政提言として「緑豊かな県林政の発展のために」など論文も執筆。
 沙漠化が進む中国に関心を持ち「中国の緑化運動」にも関わります。

 退職前に一念発起し、第一回の「樹木医試験」に挑戦、合格率10倍の難関を突破して合格。
 退職後は福岡市植物園に勤務、「緑の相談員」を10年間務めました。
 春日市等の「文化財保護専門員」としても各種講座で講演しています。

友好協会は文化の宝庫
視野が広がり楽しい

  退職1年前に現会長の松山盛利さんの勧めで協会に入会。
 以前、福岡支部で活動していた「ありの会」を引き継ぎ、「自然を楽しむ会」を創立、現在45人。
 筑紫支部の副支部長も引き受けました。

 「体力が許せば中国で沙漠緑化の研究を役立てたい。自分の知識が友好運動に活用できるのはうれしいこと。
 まだまだ勉強」と語る岡野さんです。

2016年 5月 29日 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑪  太極拳極め 本部指導員に   中村 仁美さん(田川・67歳)



人生に友好の歴史あり⑪  支部活動支え20年  太極拳極め 本部指導員に   中村 仁美さん(田川・67歳)

 

人生に友好の歴史あり⑪  支部活動支え20年  太極拳極め 本部指導員に   中村 仁美さん(田川・67歳)

 

 「太極拳は何歳からでも始められます。体幹の筋肉が鍛えられ、始めた時の体力年齢を維持できます。性格がでると言われ私も気が長くなりました。風格のある、優雅できれいな太極拳が目標です」
 香春岳山麓の自宅で静かに語る中村仁美さん。
 田川で生まれ友好協会入会とほぼ同時期から始めた太極拳歴は30年以上。
 労組書記として麻生セメントの労働者と苦楽を共にし、事務局長として60数年の田川支部の活動を発展させてきた人生を紹介します。

 

日中友好・太極拳が人生の礎 

麻生セメント労組書記に
一番ヶ瀬委員長と出会い

 

 

 田川市丸山町で出生。 お父さんは八幡製鉄所の労働者でしたが、知り合いの和尚さんから僧侶としての教示を受けます。
 戦後、田川の古いお寺を引き継ぐため宗像から越してきました。

 高校卒業後、20歳の時に麻生セメントの労組書記に。
 間もなく一番ヶ瀬さん(現県連顧問)が組合の委員長になり、この時の運命的な出会いが、その後の田川支部の発展を支えることになります。

 当時、高度経済成長と共にセメント業界にも合理化の波が押し寄せ、会社側は三次にわたる人員整理を強行。 900人いた組合員が300人ほどになりました。

仲間が励まし 難病乗り越え
太極拳を継続

 

 

 36歳から太極拳を始めます。 きっかけは初参加の県連大会で太極拳の演武を見たこと。
 金子さん(柳川)を講師に招き田川で無料講習会を月1回・1年間開きました。

 10人でスタートした太極拳サークルは25周年記念講習会が行われた2009年には100人にまで発展。
 12年前、難病にかかったり、股関節の人工関節置換手術を受けたりと苦しいことが続きました。

 「太極拳はもうできないと諦めていましたが仲間が励ましてくれ、再び始めました」と語る中村さん。
 北京体育大学にも留学し研鑽を重ねます。
 2年前、全国の本部指導員になりました。

二胡コンサート・
「殉難者の碑」建立に情熱

 

 

 1999年、吉林省の民族楽団コンサートを取り組みますが、開催直前、来日できないことに。
 既に900枚近くチケットを販売していましたが購入者には翌年、劉福君さんのコンサートを開催することで了解していただきました。
 お詫びコンサートは大盛況。 以降、2年毎に開催することになります。
 収益金は「中国殉難者碑」の建設資金や北京の残留孤児老人ホーム建設の義援金に活用。
 二胡サークルも誕生しました。

「中国問題学習会」開き
活動のすそ野広げたい

 

 

 「太極拳や二胡のサークル活動で裾野が広がっています。 中国問題の学習会にも取り組み、もっと友好運動を広げたい」と語る言葉と人生には、しなやかな女性に秘められた強さが感じられます。 

 

 

2016年 5月 1日 田川支部 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑩  友好運動 二世代で 「民主的な社会に」父から薫陶   一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)

人生に友好の歴史あり⑩  友好運動 二世代で 「民主的な社会に」父から薫陶   一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)

人生に友好の歴史あり⑩  友好運動 二世代で 「民主的な社会に」父から薫陶   一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)

一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)

 「大連で生まれ十五年間、中国で過ごしました。 大地の空気と水、食物に育まれ、現地の人々と共に成長してきた私にとって中国は祖国。 生涯友好運動を続けます」温和な語り口の一番ヶ瀬さん(八十五歳)。
 時折示す強い眼差しに、父子二代にわたって続けられている運動への熱意と意思の強さが現れています。
 戦後、田川の麻生セメント(現・麻生産業)で働き、協会の田川支部長や県連会長を歴任、「中国人殉難者の碑」建立などに尽力された人生を紹介します。
 

大連で出生、十五歳で
予科練に志願し海軍航
空隊に
 父親の宗夫さんは満州鉄道に就職し大連で中国人の電工養成所、チチハルで発電所建設の現場に勤務、電機部門の独立で満州電業の新京本社へ移動します。
 盧溝橋事件で侵略が始まると冀東電業公司の創立に唐山(河北省)へ。
 続いて華北電業として膨張すると北京・済南へ赴任し終戦時は青島支店の支店長代理でした。
 一番ヶ瀬さんは一九三〇(昭和五)年三月、大連で出生。
 北京中学時代に志願、海軍航空隊員として鹿児島の部隊に入隊します。

中国人といっしょ
に食事「偏見」
しない父に感銘
 父親の宗夫さんは中国人にとても親切な方でした。
 一家五人、中国人のメイドさん達とはいつも同じ食卓で食事をしました。
 メイド仲間で「一番ヶ瀬さん宅は待遇がいい」と評判になったほど。
 「旧日本軍が本格的に侵略を開始してから中国人への蔑視が強まった」と語る一番ヶ瀬さん。
 民主的な社会を願い「偏見」しない父の姿を見、メイドさん達とは兄弟のようにして育ちました。

帰国後、麻生産業に
勤務
父子でレッドパージに
 戦後帰国した父親は行商をして生計を維持していましたが、友人の紹介で一家は田川へ。
 一番ヶ瀬さんは進学を断念し父と共に麻生セメントで働きます。
 父が日中友好協会田川支部準備会の代表を務めていた頃入会。組合の役員も務めます。
 その後、突然レッドパージのリストに上がり父子は会社を追放されそうになります。
 守ってくれたのは当時の課長、「会社の心臓部で働く二人は貴重な人材」と主張。配置転換で済みました。

殉難者の碑を建立、
友好運動の発展は
生涯の願い
 その後父親は田川市議会議員から議長、県連の役員も務め五九歳で他界。
 一番ヶ瀬さんは組合の役員もしながら友好運動に心血を注ぎます。
 二〇〇二(平成十四)年、戦争中、炭坑に連行された中国人の「殉難者の碑」を建立。
 「鎮魂の碑に参拝した家族の方が殉難者の中に知人の名を見つけて打ち臥し、慟哭して動けなかったことは忘れられない」と語ります。

 父子二代にわたる友好運動への貢献は確固たる礎を築いています。 

2016年 3月 5日 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑨  筋を曲げずに70年  中村正次さん(久留米・94歳)

第2次引揚げ船 団長として帰国 ~人生に友好の歴史あり⑨  筋を曲げずに70年  中村正次さん(久留米・94歳)


 「毎日午後六時には仕事を終え、晩酌は焼酎一合三勺をお湯割りで何杯かに分けて飲みます。それ以上は飲みません。毎朝家族四人分の朝食と週二回の夕食作りは私の当番。日記は四十年以上つけています」開口一番元気に語る一級建築士の中村さん。
 しゃんとした背筋、色艶よく生き生きとした眼の輝きに九十四歳という高齢は微塵も感じられません。
 中国で八路軍と出会い、独学で建築技術を習得。
 技師として新中国の建設にかかわり、帰国後は「当たり前のこと」として友好運動に貢献された人生を紹介します。

文学少年 明治・大正・昭和の
文学全集を読破
 一九二一(大正十)年二月、三瀦郡木佐木村(現大木町)で出生。
 先生をしていたお兄さんの影響もあり、小学校四、五年生で家にあった明治・大正・昭和の文学全集を読破、当時の八女工業学校で土木を学びます。
 徴兵検査を受けますが肋膜炎を患っており兵隊にはなれませんでした。
 十六歳で旧満州に渡り、十七歳で満州電々(株)ハルピン中央電信電話局に入社します。

八路軍と出会い、見つけた
土木事典で建築技術を勉強
 二十四歳の時ハルピンで終戦。ソ連軍が進軍し街は一時混乱しましたが八路軍と入れ替わり治安が治まります。
 八路軍の「日僑弁公室」の一員となり、各地へ移動。
 引揚げた日本人の宿舎から見つけた分厚い「土木事典」を毎日のように読み、建築技術を習得。
 八路軍とダム建設の測量をするなど、「仕事仲間」として貢献します。
 その後、中国東北総水利局設計部の建築課長を務めます。   

第二次引揚げ船団長に推挙
され帰国、舞鶴港に
 終戦八年目の一九五三年春、帰国するか、このまま現地で仕事を続けるか迷うことになりますが、帰国を支援する中国紅十字会から中村さんの人徳と貢献度が見込まれ、第二次引揚げ船団長に推挙され帰国することになります。
 四月に天津市近郊の塘沽を出港、引揚者千九百名を載せた高砂丸は同月二十一日に舞鶴港へ入港。帰国を果たします。

久留米で就職、支部活動に
全力、事務局長など歴任
 五月のどんたくの日、博多駅に到着。さっそく協会福岡県連創立の準備をしていた事務局の人を訪問。
 その後、久留米の日本ゴムに就職し久留米支部で活動します。
 当時の役員は支部長に久留米大学教授の鮫島國三氏、事務局長は九州大学の梶原充氏(いずれも故人)達でした。
 中村さんは定年後、事務局長として活動します。

 「十六歳から三十二歳まで、終戦を挟んで十六年間中国に。そこでの出会いと経験が友好運動にかかわる人生を決めた。当たり前のこと」と語る中村さんです。

 

2016年 2月 13日 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑧  「日中と出会い 心豊かな人生に」 永田冨美恵さん (福岡・83歳)

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永田冨美恵さん
(福岡・83歳)
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「日中と出会い 心豊かな人生に」

 

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 「今の自分があるのは日中友好協会との出会いがあったからこそ、事務局で働けたことに感謝」視力・聴力が衰え不自由な生活ながら、開口一番こう語る永田さん。
 「四十七歳から六十七歳までの二十年間、日中友好運動にかかわり、多くのすばらしい人々と出会えたことは人生の支えとなった」。
 県連六十年の歴史の中で、事務局員として活動された人生を紹介します。

 

未熟児で出生 必死に育
ててくれた母の愛情に
感謝
 一九三二(昭和七)年、福岡市内で双子で出生。永田さんは未熟児でした。
 まもなく父親の里、宗像に転居。当時は医者もいなく、母親は八月でも永田さんを柳行李に寝かせ、湯たんぽを二つ入れて必死に育てました。
 五歳の時に父親が他界、母と子どもの四人で母の実家がある日田市へ。
 青春時代はうたごえ運動や演劇にかかわり結婚。夫の仕事の関係で四十二歳の時、福岡へ転居します。

 

吉武健児さんと出会い
日中友好協会事務局へ
 ある日、選挙事務所でビラ折をしていた時、吉武健児さん(当時県連事務局長、現中国語教師)との出会いが友好運動にかかわるきっかけになります。
 吉武さんから「電話番と帳簿付でいいから来ないか」と誘われます。事務所は「天満ビル」と聞き面接に。ビルらしき建物は見当たらず、旧福岡県庁前にある水鏡天満宮横の木造アパート二階の一室が事務所でした。ギシギシと音がする階段を上り八坪(十六畳)ほどの部屋で小林重光さん(故人)当時県連理事長の面接を受け働くことになりました。

 

全国大会に参加
平和友好運動に確信
 五十歳のころ、奈良で開かれた日中友好協会の全国大会に代議員として参加。各地で取り組まれている友好運動や帰国者支援活動、仲間づくりの熱心な取り組みに「目からうろこが落ちる」感動を覚えます。
 毎年十二月から三月までは中国語教室開講の宣伝です。電柱にポスター貼り、公園でビラ配りなどして募集。会議の資料作りや中国人留学生ソプラノ歌手の支援コンサート、県連や支部、日中文化センターの会計実務など多忙な業務をこなしながら、静吟会で詩吟を学び中国語の勉強もしました。
 日中文化センターの設立や天満ビルからリバーサイド、現在の事務所への移転など、六十年の歴史の重要な節目を事務局員として支えてきました。

 

市民に認知される団体
になってほしい
 「日中の様々な活動を陰になり日向になって支えてくれる人たちこそ本当の貢献者。運動の中身は素晴らしい、もっと市民の中に溶け込んでいってほしい」と熱く語る永田さんです。

 

 

 

2016年 2月 9日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

真実求め半世紀  岩佐英樹さん(玄界灘・74歳)  ~人生に友好の歴史あり⑦~

真実求め半世紀  岩佐英樹さん(玄界灘・74歳)  ~人生に友好の歴史あり⑦~

 

真実求め半世紀  岩佐英樹さん(玄界灘・74歳)  ~人生に友好の歴史あり⑦~

 

 

 

 

 


真実求め半世紀  岩佐英樹さん(玄界灘・74歳)  ~人生に友好の歴史あり⑦~

 

 

 

 

 「三菱勝田炭鉱大谷坑(糟屋郡宇美町)には終戦一年前、中国から三百五十二人が強制連行されました。終戦も知らされずに危険な坑内労働を強いられ、四分の一の八十七名が死亡しています」。時折、玄界灘に視線をやりながら静かに語る岩佐英樹さん(現県連副会長・玄界灘支部事務局長)。穏やかな表情の中にも歴史の真実を見極める強固な意思と犠牲者へのやさしい心情があふれています。高校教師を務めながら半世紀以上も日中友好運動に関わってこられた人柄を紹介します。

 

 

 

 

 

五歳の時、父親が他界
南海大地震の津波を経験

 

 一九四一(昭和16)年、徳島県椿泊村生まれの岩佐さん。戦後間もない五歳の頃、相次ぐ不幸に見舞われます。小学校教師だった父親が盲腸から腹膜炎を併発し他界。津波に襲われた時は叔母に抱かれて逃げ、九死に一生を得ます。

 十三歳の頃、親類の人々と一緒に当時、以西底引き網漁業の拠点だった福岡市の港町に移住します。

 

 

 

家族で福岡へ移住、叔父
の一言で中国に関心抱く

 舞鶴中学に入学、母親は看護婦として済生会病院に勤務、頼りにしている親類は漁師として働く生活が始まりました。
 当時、中国は東シナ海沿岸に「華東ライン」を設けていました。付近を操業していた伯父たちが中国側に拿捕されるという事件が起きます。
 一年後、帰国した伯父は「中国側の対応は親切。建国の喜びにあふれ民族独立や平和の素晴らしさを学んだ」と語り、その一言が岩佐さんの生き方を方向づけます。

 

 

 

 

高校の社会科教師に、
修学旅行で生徒と共に
中国へ

 北九州大学の中国科で学び社会科の高校教師に。一九八八年、宇美商業高校は県下で初めて中国へ修学旅行、中国についての特別授業も行い生徒を引率。社研部の顧問も定年まで担当します。
 一九九三年、NHKが「華人労務者就労顛末報告書」の存在を大スクープ。これは戦後、外務省が全国百三十五の事業所から強制労働の実態を報告させたもので長年政府が秘匿していました。

 

 

 

 

強制連行の史実を調査
ライフワークに

 一九九五年、岩佐さんは社研部員と上京、東京華僑総会を訪ね、三菱勝田大谷坑の「同報告書」を入手します。
一九九八年、大谷坑の犠牲者四十七名の遺族に「アンケート」を送付。一通だけ返事があり、はじめて中国の犠牲者遺族と連絡が取れました。
 「大谷坑では中国人労働者が敗戦を知り一斉蜂起した事実もわかってきました。これらの歴史を正しく伝え、友好運動に貢献したい」と熱く語る岩佐さんです。

 

 

 

 

2016年 1月 30日 中国人強制連行・強制労働事件玄界灘支部 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

 

人生に友好の歴史あり⑥  松枝 剛さん 田川(八十六歳)  平和運動 芽吹かせ 65年  布団一組・米一升持ち 田川へ  

 

国語教師との出会いがきっかけ

 

 「戦後のレッドパージで職を奪われ、佐賀県唐津から妻の叔父を頼って田川に来た時は心細かった。
 持ち物は布団一組と米一升」当時二十歳過ぎの松枝さん夫婦にとって田川での生活はゼロからのスタート。
 ガリ版印刷の技術を生かし、すぐに印刷屋を始めます。「この地で生き抜く」覚悟を決めた松枝さん、友好運動の推進や田川民主商工会の結成など、旧産炭地にまかれた一粒の種が芽吹き、今日大きく発展。
 おだやかで誠実な人柄を紹介します。

 

 一九二九(昭和四)年、佐賀県生まれの松枝さんは終戦当時、工業高校生。
 国語の岡正芳先生との出会いが社会を見る目を持つきっかけになりました。
 戦争の悲惨さや戦後の荒廃を目の当たりにし、不再戦を誓い社会を変えていく生き方を求めるようになります。

 

 

 

杵島炭鉱の労組書記に
結婚 そしてレッドパージ

 

 高校卒業後、駅弁屋で働き折尾駅でキャンデー売りをします。
 駅弁屋の二階にあった産別会議(当時の労働組合総連合)事務所の方と知り合いになり、ガリ版切(謄写版での印刷方法)が得意だった松枝さんは紹介で上京。港区の港生協で働きます。

 

 

 

 二十歳のころ帰郷。杵島炭鉱大鶴鉱業所(佐賀県唐津市肥前町)の労働組合で書記として働き、その頃、選炭婦をしていたミチヨさんと知り合い結婚。
 新婚生活もつかの間、アメリカ占領軍の命によるレッドパージによって松枝さんを追い出すため、会社側はミチヨさんを同調者として解雇。

 

 炭鉱を追われた松枝さん夫婦は、夫人の伯父を頼って田川に。
 持っていたのは布団一組と一升ばかりの米だけでした。

 

田川で印刷業スタート
献身的に友好平和運動

 

 謄写版印刷で開始、三年目でやっと商売も軌道に乗り始めました。
 タイプ印刷機からオフセット印刷機、写植機と印刷機も徐々に増えていきました。

 

 

 

 学校関係の文書や文化雑誌の印刷、三井田川鉱業所からの注文など仕事も増え、同業者と「田川印刷工業協同組合」を設立しました。田川民主商工会も創立。
 子供会の会長や診療所の健康友の会会長、公民館館長なども務めました。
 日中友好協会田川支部の創立にも尽力。
 当時からの健在者は、今では一番ヶ瀬さんと松枝さんの二人だけです。

 

 友好運動に力を注ぎ、一番ヶ瀬さん(現県連会長)や仲間と「日中不再戦の碑」や「強制連行殉難者の碑」を建立。
 特技を生かし、集会などの垂れ幕、式次第など毛筆で書くことは一手に引き受けています。
 また30年間会計監査を担当してきました。

 

 

 

「絵画と書」歴三十六年
学習意欲に衰えなし

 

 幼少のころから絵が得意だった松枝さんは五十歳から日展会友の江田茂人氏(故人)に師事し、本格的な油絵の勉強を始めます。
 学び始めるころ知人に相談すると「五十過ぎて今さら」と反対されましたが意思は変わりません。
 水彩画は独学で習得。同時に書の勉強も奥さんと一緒に始め、千鳥橋病院の新館に北アルプスを描いた500号の油絵を寄贈。

 

 

 

 半世紀以上の平和運動と社会貢献、芸術活動に情熱を注ぐ生き方は後に続く多くの方に感銘と生きる指針を与えています。

2016年 1月 23日 田川支部 中国人強制連行・強制労働事件 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり⑤  帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力   木村琴江さん

帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力
人生に友好の歴史あり⑤   木村琴江さん

 

 二十九年前、43歳で帰国した木村さん。 当時、残留孤児など中国帰国者のほとんどは日本語が話せず、職場や地域社会で孤立。 お互いどんな生活をしているかわからない状況でした。 当時、ハンセン病問題で元患者さんたちが立ち上がり、国に勝利して制度改善を勝ち取ったことを知った木村さんは、「自分たちが置かれた現状を変えよう」と帰国者の会」を立ち上げ運動を開始。 全国で集団訴訟を取組み、やがて帰国者支援法を成立させます。

人生に友好の歴史あり⑤  帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力   木村琴江さん
 穏やかな表情にも苦難
を生き抜いてきた強さを
秘めた木村琴江さん

二歳半で残留孤児に「この
子だけでも」と母が哀願
 両親は青森県出身、家族全員で開拓団として満州国間島省琿春県(当時)へ。
 そこで木村さんは誕生、父親はシベリアに出征します。

 一九四五年八月九日、ソ連軍が参戦、母親は幼な子七人を連れて逃避行。
 西太廟難民収容所で母親は、王世代という中国人に「子どもを抱えて食べ物もなく、私も病気で死ぬのを待つだけです。どうかこの二歳半になる女の子(琴江さん)だけでも連れて行って助けて下さい」と泣いて頼みます。
 王さん宅も子供がたくさんいたので妹の于さん宅に引き取られ、于秀琴と名付けて育てられます。

 


養父が病床で「日本人だか
ら将来帰国を」と告げる
 幼い頃、周りの人から「小日本鬼子」といじめられた琴江さん。
 養父母は日本人であることを明かさず愛情を注いで育てます。
 小学校を卒業後、十六歳で働きだしたころ、養父が病床で「お前は中国人ではない。
 日本人だから大きくなったら故郷へ帰ってみなさい」と告げられ、引き取られた経緯を知ることに。
 十九歳で結婚、一男三女をもうけます。
 国交回復後の一九七三年、中国の公安局から調査を受け「日本人孤児」として登録されます。

 


二十九年前、43歳で帰国
中華料理「帰郷」を開店
 一九八六年九月一九日、身元は未判明のまま家族全員で帰国。
 母国に帰れた喜びもつかの間、言葉は通じず体調を壊し病気に、二年間生活保護を受けます。
 自立しようと努力の末、小さな中華料理店を福岡市東区箱崎に開店。
 店名は「帰郷」。 見知らぬ両親の母国に帰れた喜び、ここを拠点にこれからの人生を強く生き抜く気持ちを込めた店名です。

 


60歳で「帰国者の会」立ち
上げ「支援法」制定へ全力
 「九州の帰国者の会には百四十人以上います。高齢で日本語をほとんど話せず生活保護を受けて最低限の生活、老後が不安です。『支援法制定』に日中友好協会や弁護士の方が支援してくれ感謝に絶えません。日本人として当たり前の生活がしたい。これからも運動を続けます」九州地区・福岡県中国帰国者の会会長、協会福岡支部理事を務める木村琴江さんです。

 

 

2015年 9月 12日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり④  養父母の愛 中国で教師に  ~「祖国は二つ」友好は生涯の願い~  川添緋沙子さん

養父母の愛 中国で教師Img_20150901_01

 

「祖国は二つ」友好は生涯の願い

 

川添緋沙子さん 福岡(七十九歳)

養父母の愛 中国で教師  ~「祖国は二つ」友好は生涯の願い~  川添緋沙子さん

 


 「私の祖国は二つ、戦後七十年の今、心から友好を願っています」
 九歳の時、戦後の逃避行で父母は他界。 旧満州ハルピンで残留孤児になった川添さんは養父に助けられ九死に一生を得ます。
 養父母の愛情を受けながら必死で中国語を覚え、師範学校を首席で卒業。 小・中・高の教師を務め、四十七歳で帰国。
 日本語を習得し帰国者支援に生涯をかける生き方には「友好平和」を願う強い信念があります。

 家族五人で逃避行、両親は
収容所で死亡、残留孤児に

 川添さんの故郷は佐賀県唐津市北波多町。
 郵便局員の父は転勤で旧満州の延吉市に、そこで出生します。

 昭和二十年八月、父は郵便配達中にソ連の空爆に遭遇。
 当時九歳(小三)の川添さん、二人の妹と両親、一家五人の逃避行が始まります。
 草や木の根を生のまま食べ、夜は木の下で寝ました。
 ソ連軍に遭遇し牡丹江の収容所に、母はそこで出産し死亡。
 赤ちゃん(妹)は中国人に引き取られます。
 その後移されたハルピンの収容所で父も息を引き取りました。

 

餓死寸前、養父に救わ
れ九死に一生を得る

 飢えと寒さで餓死寸前、亡くなった父親を立って見送ることもできませんでした。
 その日の夜、「まだ生きている」と中国人五・六人が探しに来てくれました。
 父が亡くなる直前、中国の友人に川添さんたち姉妹のことを頼んでくれていたのです。
 妹も他の中国人に引き取られて行きました。

 

「言葉の壁だけでなく
人生の壁も乗り越えな
ければ」

 養父は仕事でハルピンに単身赴任で来ていました。
 男手ひとつで川添さんを育て「早く元気になって学校に行きなさい」と励ましました。
 「これから中国人と暮らす、言葉の壁を乗り越えなければ」と必死で中国語を覚えます。

 養父は「お前の命を救ったのは、老後の面倒を見てもらうためではない。 社会に役立つ、立派な人間になってほしいからだ」と励まします。
 養父も若いころ日本人に助けられた経験がありました。

 新中国誕生の年、十三歳の川添さんは試験を受け、国語・算数とも百点で夜間学校に入学。
 その後養父の仕事で故郷に帰り山東省立師範学校に入学。
 卒業後、小学校・中学校・高校の教師を務めます。

 

四十七歳で帰国、協会
と出会い帰国者支援運
動に全力

 「『戦死者』として戸籍が抹消されパスポートが取れない上、身元保証人の問題もあり、なかなか帰国できませんでした。 帰国してからは日本語ができず壁にぶつかりました。 必死で日本語を覚え、家族や生活のことで支援してくれたのが日中友好協会です」と語る川添さん。
 帰国者の会事務局長として活動する姿には、「二つの祖国の平和友好」を願う信念が満ち溢れています。

 

 

2015年 9月 1日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり③ 「受講生は1万人 中国語教師で生涯現役」  吉武健児さん(福岡・80歳)

人生に友好の歴史あり③ 「受講生は1万人 中国語教師で生涯現役」  吉武健児さん(福岡・80歳)

中国語教師で生涯現役

 

   「一声はもっと高く、中国人には通じませんよ」張りのある声が教室に響きます。
 半世紀以上も友好運動に携わり、その大半は中国語教師の吉武健児さん。
 高低をはっきり発声する指導は定評、現役の教師です。

 文化大革命の困難な時期に県連の事務局長を務め六十年の歴史を支えてこられました。
 八十歳とは思えないその立ち居振舞いに、信念に裏付けられた生き方が表れています。

 

遺骨を抱いて父が帰国
中国語で方言も聞く

 一九三五(昭和十)年一月、宗像大社の近くで出生。
 山西省へ輜重(運輸)部隊で出征していた父親が終戦前、戦友の遺骨を抱いて帰国。
 当時五~六歳だった吉武さんは毎日、中国の話や中国語の方言などを聞いて育ちました。

 その影響もあったのでしょうか、「貿易関係の仕事がしたい」と北九州大学の中国科に進みます。
   

北九州大学で中国科を専攻
故深谷さんと運命の出会い

 その頃、大学に出入りしていた故深谷節子さんから中国語の歌などを教えてもらいます。
 深谷さんは中国で終戦を迎え、解放軍の文工隊として各地を転戦、帰国後は日中友好運動を推進した大先輩。
 二十四歳だった吉武さんはこの出会いをきっかけに協会小倉支部に入会。
 国交回復前、全国で取り組まれた「京劇公演」の北九州開催に青春の情熱を燃やします。
   

運動の傍ら中国語教師
大学では人気投票第一位

 卒業後は万年筆会社の営業マンに。
 毎週水曜日、仕事が一段落した夕方から福岡市天神の天満宮一角にあった協会事務所で中国語教室の講師を努め、終了後会社へ戻るという生活。
 その後、仲間の紹介で九大生協の食堂で働きます。

 当時福岡支部には三百人の青年部員がいて活動も活発、「恋の花」が幾つも咲き、吉武さんは初代書記長になりました。
 一九六六年、三十歳で協会の専従職員に、文革の影響で会員が四分の一に激減するなど困難もありましたが、事務局長として五十歳までの二十年間、友好運動を最前線で支えます。

 旧友の紹介で五十一歳から西南大で中国語の非常勤講師に、その後福大・中村大・九州国際大・九州共立大などで講師を務め受講生は約一万人。
 西南大学園祭の「講師の人気投票」ではナンバーワンになりました。
   

国民的な友好が基礎
切り開いてきた道一筋に

 事務局長時代は帰国者の方から昼夜を問わず住居や仕事、家族の相談が寄せられ寸暇を惜しんで対応、「協会は心の拠り所」と語ります。
 「国民的な友好が基礎」と自らの体験から得た信念に揺らぎはありません。
 その不動の姿勢は吉武さんを知る人々に友好運動への希望と確信を与え続けています。

 

 

 

 

 

 

2015年 7月 5日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

友好と民主運動50年  戦後 戸畑でひとすじに 須崎健一さん(戸畑・七十六歳) --人生に友好の歴史あり②

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須崎健一さん(戸畑・七十六歳)

 

 どこか「古武士」の風貌を漂わせる須崎健一さん(七十六歳)。厳しかった時代のことも楽天的に語る口調に、おおらかな人柄がにじみ出ています。一九三九(昭和十四)年三月、八幡で生まれ国民学校(当時)一年生の時から現在まで、戦後七十年間を戸畑で生活。二十歳過ぎから半世紀もの間、日中友好や民主運動一筋に生きてこられました。その人生と人柄を紹介します。

学習会参加がきっかけに

 

 

 幼少期は田川郡糸田町の炭住街で育ち戸畑に転居。高校卒業後働き出した頃、九州工業大学の先生だった本荘光宏さんが自宅で開いていた学習会に参加します。本荘さんは日中友好運動の大先輩。戦後日本の民主化の道のりや社会の仕組み、中国との平和友好の話など引きつけられました。
 一九五八年、五郡典夫さんが中国から帰国、西村義一さんらと共に日中友好運動を推し進めます。須崎さんは当時十九歳、正義感と情熱で迷わず友好と民主運動に加わりました。 小沢和秋衆議院議員の現地事務所の事務局長、黒崎合同法律事務所事務局長などを務めます。

支部長引き受け、一年半で会員を五倍に

 

 一九九二年五十三歳の時、五郡支部長(当時)の依頼で支部長を引き受けた須崎さん。支部総会に来賓として参加した岩佐理事長の「会員拡大」の訴えに一念発起します。翌日弟さんに、その後知人友人に片っ端から入会を勧め、当時十二名だった会員が六十名と一気に五倍化しました。
 この躍進をきっかけに八幡支部の結成、門司支部の再建、小倉・若松での活動へと発展します。 須崎さんは北九州協議会の事務所を開設、日中友好運動発展の拠点となりました。      
  

「楽しい企画が大事、笑いがあれば人は集まる」

 

 「私の好きな三大映画は『初恋のきた道』『ニューシネマ・パラダイス』『ローマの休日』映画には文化が凝縮されている。中国映画の最高は『不屈の人々』多くの人に見てもらいたい」と目を輝かせます。自らもビデオカメラで映画を作成。支部総会では必ず中国映画を上映します。
 「映画会や中国語教室、ギョーザ会など楽しいことをどんどん企画すべき、皆で話し合い笑いながら活動するところには自然と人が集まってくる」と語ります。
     

中国映画(DVD)30枚

 

 溢れるようなロマンを秘めヒューマニストの須崎さん、「活動に役立てて」と気前よく中国映画のDVDを県連に寄贈。周りを包み込む大らかな人柄は中国の大河を思わせます。

(訂正)2015/6/6 文中に、別な記事の文面があり、削除しました。

 

 

2015年 6月 5日 北九州協議会戸畑支部 交流 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)

「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

 

宗広有蔵さん・88歳 宗広マツさん・81歳(糸島支部)

 

「母なる中国に感謝」 人生に友好の歴史あり① 宗弘有蔵さん・宗弘マツさん

 「よく生きて帰れた、絶望もあったが人生の基礎ができた」と語る宗広さんご夫婦。希望を持って渡った旧満州で敗戦を迎え、何度も死線をさまよいましたが、中国の大地と人々に助けられ人生の指針を得て帰国。以来、半世紀もの間日中友好運動を支えて来られました。シリーズ一回目は、絶望の淵から這い上がり友好運動に熱意を込める宗広さん夫婦の人生と人柄を紹介します。

 

南満州鉄道に就職
翌年現地召集
 有蔵さん(十七歳)

 

 有蔵さんは八幡製鉄所と南満州鉄道に合格。終戦一年前の一九四四年一月、「給料が高かった」南満鉄に入社。翌年八月一日、現地招集でチチハルの技術部隊に配属。訓練期間中の九日「ソ連軍参戦」で敗戦。捕虜となり、ソ連国境の黒河の収容所に入れられます。

 一九四六年、五百キロ離れた北安に徒歩で移動。七百人いた部隊は死亡者が続出、到着したのは三百人程でした。有蔵さんも発疹チフスにかかり、病人収容所に入れられます。薬も手当てする人もなく、七百人程いた病人の中で、生き残ったのは有蔵さん含め七人。「生きる運だけが頼りだった」と当時の悲惨な状況を語ります。

 

生き地獄と化した開拓団
十一歳の逃避行
 マツさん

 五歳で家族と満州に渡ったマツさん。敗戦の日、逃げる時家族とはぐれますが隣村の開拓団で母と姉妹に再会。安心したのもつかの間、地獄の逃避行が始まります。

 頼りになる「兵隊さん」は鬼の軍隊、「絶対服従」は開拓団員にも強制されました。「泣く子は殺せ」の命令が下り四歳の妹も犠牲に、たどり着いた収容所は栄養失調・伝染病で死体の山でした。

 母もなくなり中国人の家に引き取られます。二年後、十三歳の時解放軍の看護婦になった姉が探しに来てくれ、解放軍の保母として働くことになります。

 

鶴岡炭鉱で社会主義を学習

 

 待ち望んだ帰国列車が内戦の混乱で進めず鶴岡炭鉱に運ばれた有蔵さん達。帰国の望みを絶たれた中で五年間機械設計の仕事をします。そこで社会主義を学ぶ仲間と出会います。一週間に一度の学習会では社会の仕組みや人民が主人公であることを学び、「目からうろこが落ちる」日々でした。

 一九四九年十月一日、中華人民共和国が建国。人民の国ができ、そのために働けることに感動しました。二千人いた同僚から有蔵さん含め数十人が選抜され、北京の人民大学で学ぶことになります。奥さんのマツさんは人民大学の保母さんでした。知り合った二人は仲間に祝福され結婚します。

 

帰国後、友好運動に全力
糸島支部を創立

 一九五八年に帰国した宗広さん夫婦。早速、友好運動に参加、中国との国交正常化直後の一九九九年9月、糸島協議会(その後支部)を創立します。

 「中国への信頼はゆるぎない。『日中友好』の一点で楽しく、おおらかに、しなやかな運動が大事」と語る二人です。

 

2015年 5月 31日 糸島支部 中国残留邦人帰国者 交流 人生に友好の歴史あり | | コメント (0) | トラックバック (0)