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第2回 中国帰国者を励ます集い 中国帰国者2世にも1世並みの支援を
5月12日(日)PM1:30~
福岡県弁護士会館 2F大ホール
福岡市中央区六本松4丁目2番5号
アクセス https://www.fben.jp/map/
講演 倉林明子さん
日本共産党参議院議員・厚生労働委員会所属
第1部 学習会
倉橋明子さんの国会報告
激励の言葉
第2部 交流の集い
モンゴル舞踏・太極拳・チェロ・ハーモニカ演奏
合唱・ヤンコ踊りなど
◆参加費 500円(資料代)
2024年 3月 24日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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福岡日中文化センター ダウンロード - tudoi_2023_42.pdf
創立42周年のつどい
劉福君二胡ミニコンサート
帰国者着物ショー
モンゴルの踊り
各講座・サークルの成果発表やギャラリーでの作品展示など盛りだくさんの内容
とき: 2023年5月20日(土)
開場12時30分 開演13時~16時30分
ところ: アミカスホール(4階)
福岡市南区高宮3-3-1 西鉄大牟田線高宮駅徒歩1分
参加協力費: 1,500円
福岡日中文化センター作品展
(書道・きりえ・鮫島初代所長遺作)
とき: 5月18日(木) 13時~18時 19(金)・20日(土) 10時~18時
ところ: アミカスギャラリー(2階)
お問い合わせ: 福岡日中文化センター 電話092-751-9754

2023年 3月 26日 福岡日中文化センター イベント・講演 中国残留邦人帰国者 二胡 交流 | Permalink
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2023年
中国帰国者を励ます集い
人間の尊厳をもって
笑顔で暮らしていくために
中国帰国者2世に「新・支援法」を
改正して適用を
昨年6月、請願署名を国会へ提出。自民、公明、
維新の会の同意が得られず審議未了となりました。
今年の5月、国会提出へ向けて「中国帰国者2世
の生活支援等を求める請願書名」に取り組んでいま
す。
皆さんのご支援をお願いします。

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とき 2月26日(日) 14時~16時30分
ところ 福岡県弁護士会館2階大ホール
(福岡市中央区六本松 裁判所横)
地下鉄七隈線:六本松駅そば
参加協力券 500円
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第一部 中国帰国者2世の要求実現を目指して
〇 「帰国者支援の残された課題」 岩橋英世弁護士の話 〇 帰国者が訴えます。 〇 支援団体から激励の挨拶
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第二部 交流のつどい
〇 ハーモニカ演奏 〇 チェロ演奏 〇 モンゴル舞踏 〇 太極拳表演 〇 合唱 〇 ヤンコ踊り
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2023年 2月 12日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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帰国者の要求をともに実現しよう

「帰国者2世役員会」2022年3月22日
帰国者2世の会第17回役員会が3月22日、半年ぶりに行なわれました。この間、帰国者2世の生活実態アンケートを全国に発信して集約したのを記者会見で発表するなどコロナ禍の中でも用心しながら活動してきました。
2018年3月より始めた帰国者の3項目の要求を纏めた国会請願の提出日が4月18日に決まり、大詰めを迎えています。この2年間、コロナの影響で活動が制約されている中でも日中友好協会の支援で27000筆を超える署名が集まっています。
国会請願には小島北天会長と日高秀子事務局長が上京します。紹介議員要請には、福岡県内の国会議員30人と衆議院・参議院の厚生労働委員70人を訪問して協力をお願いする計画です。
帰国者自身が自らの要求を実現したいという思いを共有する「つどい」を計画しました。多くのみなさんの参加をお願いします。
役員会には佐賀市にお住まいの帰国者2世の中地さんが参加され懇談しました。
中地さんは1981年に残留婦人の母と一緒に国費で帰国しました。日本語を学ぶ機会もなく働いてきました。最初は掃除の仕事でした。「日本語も分からないのにやとってやっているんだ」と言われ、給料も僅か3万円でした。それでも働き続けました。仕事も何回も変わりました。
差別されたのが一番つらいことでしたといままでの人生を語りました。
役員のみなさんはみんな一緒、つらい、苦しい生活を乗り越えて、人間らしく生きたい共通の思いを叶えられるよう、今、政府へ改善を求めて運動しているんです。
ともに頑張りましょうと激励し、12日の「つどい」で再会を約束して役員会は終わりました。
帰国者を励ますつどい 4月12日(火)15時30分~17時 福岡県連事務所 |
4月18日 中国帰国者問題・院内集会 PDFファイルを見る


2022年 3月 25日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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4月18日 中国帰国者問題・院内集会 PDFファイルを見る


中国帰国者2世が笑顔で暮らすための法改正を
中国残留孤児は1945年の敗戦時に中国東北部にとりのこされた子ども達です。
日本政府の帰国政策の遅れにより、残留孤児が帰国できた時にはすでに高齢となっており、中国で家庭を築いていた方も多くいました。彼らが帰国する際、配偶者や子ども達(2世)も帰国しました。
2世の中には終戦直後に生まれ、現在70歳を超えている方も多く、日本語が不自由な中で日本社会で仕事を得て生活していくのは困難で、厳しい状況に置かれています。
満足な年金を受け取ることもできません。2世の多くは生活保護に頼らざるを得ないのが実情です。日本社会の中で孤立するケースも少なくありません。
帰国者2世が、日本に帰ってきて良かったと思えるよう、支援法を改正し、社会全体で支えていく仕組みが必要です。
要求項目 3点
1 1世やその配偶者だけでなく2世にも老後の生活支援をしてください
2 私費帰国の2世も国費帰国の2世と同等に通訳・日本語教育サービス等が
受けられるようにしてください
3 中国への里帰りが2週間を超えても生活保護費の減額・停止しないでください

問い合わせ先
九州地区中国帰国者二世連絡会
日本中国友好協会
福岡市中央区渡辺通2-8-23 3F 電話 092-761-0604
Email kikoku@jcfa-fuk.jp
日本中国友好協会福岡連合会内(担当:星野信)

2022年 3月 25日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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日中友好協会福岡県連合会
号外 2022年3月15日
日中国交回復50周年
第60回福岡県連大会成功裡に終わる!
~ZOOM14ヶ所を含め55人が参加~
(続報)大会発言 ⇒前半を読む
戦争は絶対ダメ
日高秀子(福岡・帰国者)さんは「ウクライナの戦争は帰国者の避難と重なってとても悲惨です。戦争は絶対起こしてはなりません。人間らしく生きたい、このままでは生活も心も苦しい。帰国者の声を国会に届けます。国会請願署名にご協力下さい。」
大学一(田川)さんは、ロシアのウクライナ攻撃に対して考えることを5点に纏めて報告。「①核兵器禁止条約を世界のすべての国が承認して署名する。②現在存在する各国の安全保障条約はすべて破棄する。国連憲章を守る。③世界の紛争は平和的に解決する。④世界のすべての国は戦争を放棄し、戦力を保持せず、交戦権を認めない。⑤基本的人権を尊重し、すべての人が平和のうちに生存する権利を認める。」

発言する稲津さん
コロナを乗り越えて
松永奉義(八幡)さんは「コロナ禍で行事が何もできなかったが、中国映画を見る会をとりくみ「山の郵便配達」を鑑賞して感銘を受けました。隣国中国との友好の為に頑張りたい。」
稲津克子(小倉)さんは「まんえん防止が解除されたので中国語講座を再開しました。宣伝紙を渡していた市民劇場のお友達に協力をお願いして新聞が増えました。」
中国人強制連行慰霊碑建立
松本正(飯塚)さんは「三菱マテリアルが飯塚炭鉱で強制労働させた中国人と和解が成立。現存する巻上機の土地155坪を購入して慰霊碑建立の実行委員会をつくって準備しています。その資金は、歴史人権平和基金管理委員会(三菱、弁護士、中国人当事者で構成)に申請中で間もなく承認される見通しで年内には完成する予定です。」
堀榮吉(大牟田)さんは「大牟田宮浦坑の慰霊碑建立から10年目を迎えています。宮浦石炭記念公園内の用地契約が10年となっており、今年は7月17日に予定しています慰霊祭を盛大に催して存続できるようにしたい。自分自身は90才となり、74人の帯封をつくって配布集金しています。若い協力者のお母様が入会され心強く感じています。」
「中国百科テキスト」は中国をまるごと知る
松尾武蔵(筑紫)さんは「中国の歴史、地理、文化、政治・経済の4分野の専門家が執筆した『中国百科テキスト』は中国を知る宝の資料です。日中両国民の相互理解を深める上で欠かせません。中国が改革開放以来急速な経済成長を遂げ、2022年には「高所得国」入りを果たし、さらに「共同富裕」を目指しています。中国の変化は「増補版」で補強されています。中国の正確な情報を知る為にみんなで学び合いましょう。『中国百科検定試験』は知ることの喜びを体験するいい機会です。挑戦しましょう。」
星野信(福岡)さんは「コロナの影響で両国民の交流が停滞しています。それでも、日中両国の若者は相互理解を深める努力を続けています。政治的な溝は広がっていますが、昨年の内閣府による世論調査では、18才から29才の若年層は『中国に親しみを感じる』との回答は41.6%で全体平均20.6%の2倍と毎日新聞は報じています。」

(左から)松尾さん、原田さん、
議長の岩佐さん、片山さん、
挨拶する稲村会長
大会のまとめ
原田祥昌事務局長はまとめで「13人の発言は支部活動の教訓になるものでした。中国総領事のオンラインでの挨拶は画期的でした。日中国交回復50周年を跳躍台にさらなる友好を発展させていきましょう。
ロシアによるウクライナ侵略は国連憲章をないがしろにするもので国連では非難決議が141ヵ国の賛成で採択されました。武力は許さない、田川支部の5つの決議は指針となるものです。
学生の報告は若者の実状を知るいい話でした。百科検定予備講座は中国を知るいい機会です。全国に発信されることになりました。
帰国者のとりくみを全面的に支えて要求実現をやり遂げましょう。コロナを乗り越えた支部活動が生き生きと語られたのは、今後の展望を示すものとなりました。
県連の前進を目指してともに奮闘しましょう。」と結びました。
2022年 3月 20日 福岡県連合会 イベント・講演 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 交流 中国百科検定 | Permalink
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日中友好協会福岡県連合会
号外 2022年3月14日
日中国交回復50周年
第60回福岡県連大会成功裡に終わる!
~ZOOM14ヶ所を含め55人が参加~
福岡県連は3月13日、第60回県連大会を開催しました。会員15人に1人の代議員定数42人の内、各支部から選出された39人と14ヶ所からZOOMで参加したオブザーバーを含め総勢55人が出席。
松尾武蔵理事長が情勢報告、原田祥昌事務局長が1年の活動のまとめと方針を提案、原口常任理事が決算と予算を提案、諸岡ムツ子監査が監査報告し、33人の役員を選出。13人が発言し、三輪俊和副会長は閉会で「総領事の平和と友好のお話に感動するとともに多様性のある発言が良かった」と挨拶。協会の役割に確信が持てる熱い大会でした。
律桂軍福岡総領事がZOOMで来賓挨拶
来賓を紹介。律桂軍福岡総領事がZOOMを通じて挨拶しました。
総領事は「中日国交回復50周年に当たり、中日友好がさらに発展することを期待しています。2020年、コロナ感染が拡大している武漢市に医療器具やマスクを寄贈していただきありがとうございました。2010年には、1億近い国民が貧困から脱却するなど経済成長の成果が実っています。建国100年となる2050年を目指して社会主義・現代化国家を目指します。中日間の『4つの基本文書』をもとに中日友好事業を進めていきましょう」と挨拶しました。
メッセージは日中友好協会をはじめ、福岡県議団の緑友会、日本共産党、団体は福岡県労働組合総連合、新日本婦人の会福岡県本部、エフコープ生協労働組合、福岡医療団労働組合、福岡第一法律事務所、福岡県商工団体連合会から頂きました。
福岡支部が21年連続増勢を決意
稲村晴夫会長は「ロシアによるウクライナへの攻撃によって市民が犠牲になり、250万人が隣国へ避難しています。さらに原発を砲撃し、核兵器で恫喝するなど国際法を無視した戦争は許されません。この事態に国際社会は、ウクライナからの撤退、国連憲章を守れの世論を大きくしていくことが大事です。この機に乗じて、憲法9条を変える動き、『核の共有』を自民や維新の会が主張しています。台湾有事を煽って軍事費を増強する岸田政権は敵基地攻撃まで持ち出しています。この動きに対して、核兵器禁止条約に加盟せよ、憲法9条を生かした平和外交をとの声を広げましょう。アメリカは日本の協力がなければ戦争はできません。日中共同声明に「紛争の話し合いによる解決を」と明記されているように、今こそ不再戦を掲げている日中友好協会のがんばり時です。」
有馬精一(福岡)さんは「帰国者のみなさんがウクライナで起きていることに思いを馳せ自らの体験と重なり合わせて心を痛められていることと思います。」と切り出し、「福岡支部は現在409人です。12%増、458人を目指し21年連続増勢をやり遂げるために、全会員の力に依拠するために、2人一組で全会員を訪問して仲間増やしを呼びかける」決意を述べました。
ホームページを見て「日中友好にお役に立ちたい」と入会したTさんはZOOM参加で中国の若者事情について「国潮(中国ブランド)、躺平(寝そべり族)、中国コスメ(中国ブランド化粧品)、RED(小紅書:ダイエット・メイク・写真の撮り方)等新鮮な驚きを持って話を聞きました。
中国残留邦人帰国者2世 川添智弘氏より
県連へマスク12000枚寄贈される!
オミクロン株による感染急拡大を心配して、中国残留邦人帰国者2世の川添智弘氏(日本弘道株式会社代表取締役)より日中友好協会福岡県連合会に「役立ててほしい」とマスク12000枚が寄贈されました。第60回大会で稲村会長より川添智弘さんの母親である川添緋砂子さんに感謝状が渡されました。2020年12月にも、福岡県庁へ24000枚、福岡県連へマスク3000枚が寄贈されていました。
県連は、支援者のみなさんや介護施設、保育園など感染が心配される施設へ寄贈する準備を進めています。

マスクを手に(左から) 原口さん 大井さん 中村さん

川添緋砂子さんへ感謝状を渡す
県連版発行に感謝!
福岡県連は「友好新聞」と同時に月2回発行を続けています。県連結成後3月15日で756号となりました。会員との絆の役割を担ってみなさんの活動情報を発信するとともに日本と中国の情報を伝えていきます。ホームページムを担当されている中村浩章さん、「囲碁雑事」を116回 にわたって連載している森田覚さん、県連版編集を担当している石田恵子さんを招いて懇談しました。前任者の入田幸一さんは参加できなかったのは残念でした。

前列左から2人目から石田さん 森田さん 中村さんと事務局のみなさん
⇒大会の続報はこちら
2022年 3月 19日 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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中国「残留孤児・婦人」2世の生活状況アンケート全国で調査開始
厚労省交渉・国会請願に活用
九州帰国者2世連合会及び日本中国友好協会福岡県連合会は、日中友好協会の方針のもと、2018年より、「人間らしく生きたい」という要求実現に向けて、国会請願署名運動に取り組んでいます。現在のところ、来年1月の通常国会に請願します。2世の皆さんは全国で数万人いらっしゃいますが、帰国した年齢や住んでいる地域も違い、その状況に応じて様々な要求があると思います。そこで、日本政府と交渉するにあたり、全国の2世の皆さんの生活の実情を把握し、交渉に役立てたいと考え、「中国『残留孤児・婦人』2世の生活状況アンケート」調査を行うこととなりました。

郵送作業する2世の役員さんたち
アンケートは帰国前後の生活状況、日本語の習得、就労状況など68項目の多岐にわたっています。早速、2世の会の役員が参加して会員さんへ郵送しました。画期的な取り組みで運動が発展することが期待されます。帰国者2世の皆さんの平均年齢は65歳となり、早期の解決が求められます。人間らしく生きたいという願いが叶えられるのは、私たちにとっても共通した思いです。
アンケート調査は、8月から10月末とし、11月には集計を終えて厚労省交渉や国会請願に活用します。
中国残留邦人帰国者二世の問題について 浅野 真一(神戸大学教授)講演と全国交流会 オンライン学習会
8月20日(金)14時~16時、日中友好協会福岡県連合会がホスト
内容 ●開会挨拶:稲村 晴夫 本部副会長・県連会長 ●講演「中国残留日本人二世の人生が問いかけること ー支援法から取り残された中国帰国者たちー」浅野 真一(神戸大学教授) ●質疑 ●生活調査アンケートの目的について:弁護士からの提案 ●今後のとりくみについて提案:星野 信 帰国者担当 ●交流 ●まとめ・閉会挨拶:松尾 武蔵 本部理事長・県連理事長
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2021年 8月 14日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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ReadyFor クラウドファンディング
「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
→ 募金サイトはこちら
目標の金額を達成できました。
皆様の応援メッセージは募金サイトにも掲載されています。
応援メッセージ 11
21/04/16 :小山一郎
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。今後、弁護士や学者で国の政策を変えるための作戦会議なども行いますので、ぜひお知恵もお借りできればと思います。ありがとうございます。」
21/04/16 :なりた のりえ
「頑張ってください!」
21/04/18 :松本正
「皆様からの更なる支援を期待しています。今回は私の妻の分を申し込みます。」
21/04/19 :野の花
「いつも応援しています。がんばってください。」
21/04/19 :suuchann
「戦争の遺した、いろんな傷痕を少しでも繕っていきたいですね。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。戦争の傷を修復すること、そして未来に語り継いでいくことが平和への道なんだと思います。ありがとうございます。」
21/04/20 :februare0228
「応援しています。」
21/04/20 :かえる27
「陰ながら皆さんの事を応援しております。」
21/04/21 :しろ
「恥ずかしながら、そのようなご苦労をされていることを今回初めて知りました。応援しております。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。中国残留孤児1世2世のおかれた状況を知っていただきたいとの思いでこのクラウドファンディングをはじめました。ありがとうございます。」
21/04/21 :Reiko Okabe
「微力ですが応援します。」
21/04/21 :ゆりえ
「私自身も偶然、帰国者の方とのご縁をいただき、たくさんの事を教えていただきました。応援しています!」
21/04/22 :「片山みつこ様、片山登様、小濱恵子様よりご支援いただきました。ありがとうございます」
21/04/22 :コアラ
「帰国者一世の方々は母と同年代です。私も帰国者二世になっていたかもしれないのです。他人事には思えません。微力ですが応援しています。」
21/04/22 :阿部 晃成
「大学で研究員をしているときに知り合った学生が残留孤児三世だったとの事を知り、今回の支援に繋がりました。微力ですが支援させて頂きます。
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。帰国者の苦しみというのは世代を経るに従って解消されるものだと思っていました。しかし、一昨年、3世の方と一緒に中国東北部を旅をしながらお話を伺い、3世を描いたドキュメンタリー番組を見たり、昨年、3世の佐藤昇さんが書かれた「不確かな血」を読んで、必ずしも世代を経ることで解消される問題ではないということを認識しました。」
21/04/22 :「今村明子様からご支援いただきました。ありがとうございます。」
21/04/22 :Guillaume amunat
「国を破滅に追いやった戦争指導者が何の責任も取らずに戦後その子孫まで栄華を極める一方で、愚かな国策の犠牲となり棄てられた民は何世代にも亘ってそのつけを払わなければならない。こんな不条理を放置してきたことが現在の日本を生み出してきたのでしょうね。立派なご活動に敬意を表するとともに微力ながら応援させてください。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「その通りだと感じます。責任を取るべき人が責任逃れをする空気は今も続いているように思います。ご支援ありがとうございます。」
2021年 5月 3日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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ReadyFor クラウドファンディング
「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
→ 募金サイトはこちら
目標の金額を達成できました。皆様に感謝します。
皆様の応援メッセージは募金サイトにも掲載されています。
応援メッセージ 10
21/04/07 : Mi
「十分な請願活動がおこなえ、最終的な目的が達成されるよう祈っています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。効果的な請願活動についても慎重に議論しながら進めてまいります。ありがとうございます。」
21/04/07 :sasurau
「頑張ってください!」
21/04/08 :岡本茂樹
「入力方法がよく分からず遅くなってしまいました。私の両親も戦前朝鮮や満州に行っていました。私は戦後生まれですが、次姉は昭和19年満州国生まれ、兄は昭和21年8月中華民国生まれです。昭和21年11月に引き揚げてきましたが、乳児を含む3人の子を連れての船旅は大変危険だった言っていました。二人の姉も兄も残留孤児の方たちと同じ世代で、とても他人ごととは思えない気持ちです。2世の方たちが私たちと同じように日本で暮らせることを望みます。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。他人事と思えない、まさにそうですね。国家に運命を翻弄されるような世の中にしてはなりませんね。帰国者の講演会や勉強会も企画して、平和を守り続けたいですね。」
21/04/09 :Momo
「頑張ってください!」
21/04/10 :Ohsawa Daisuke
「頑張ってください!」
21/04/11 :kinema365
「少しでもお役にたてますように」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。大切に使わせてもらいます。」
21/04/11 :ゆかりん
「最近になって、中国残留日本人のおかれた状況について知る機会がありました。困難な状況が少しでも改善されるよう願っています。気持ちばかりですが応援しています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ありがとうございます。これを機会に多くの方に、どうして日本の子ども達が中国東北部に置き去りにされたのか、なぜ帰国が遅れたのか、帰国後あまり表に出てこないのはなぜかなど知っていただきたいと思っています。ありがとうございます。」
21/04/12 :コニファーママ
「長い間苦しい状況におかれ、おつらいことでした。応援している人たちがいます。希望を持っていただけますように。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。温かいお言葉もありがとうございます。帰国者たちに伝えます。」
21/04/12 :池上大祐
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。多文化共生社会を実現したいです。」
21/04/15 :高野繁幸
「残留孤児2世の活動が実を結び、日本の社会がもっともっと優しくなれますように祈っています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。誰にでも寛容で温かな日本社会を作って行きたいですね。ありがとうございます。」
21/04/16 :マミ
「頑張ってください!」
21/04/16 :Mignon
「TVを見てこのCFを知りました。同じ福岡人として応援したいと思いました。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。僕も先程録画していたのを見ましたが、中国残留孤児2世の境遇を正確に描いていましたね。Mignonさんをはじめ皆様からの温かいメッセージは、孤立していた残留孤児の心に届いています。ありがとうございます。」
21/04/16 :永松哲郎
「私は鞍山生まれです。昭和21年に葫蘆島から博多に引き上げてきました。残留孤児は他人ごとではありません。頑張ってください。」
21/04/16 :松﨑百合子
「日本が行った侵略戦争に起因する人々の苦難は終わることがありません。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。二度とこのような苦しさを味わうことがない平和な社会を築きたいですね。」
2021年 4月 30日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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ReadyFor クラウドファンディング
「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
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応援ありがとう。 皆様の応援メッセージは募金サイトにも掲載されています。
応援メッセージ 9
21/03/30「秦久子様よりご支援いただきました。ありがとうございます。」
こけ :21/03/30
「みなさんが笑顔で暮らせる毎日が訪れますように!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。多文化共生で、尊重しあえる笑顔で過ごせる社会を目指したいです。」
みかりん :21/03/30
「頑張ってください!」
篠崎 省吾 :21/03/31
「応援してます。」
daredevils36 :21/04/01
「頑張ってください!」
川崎 奈津子 深町 :21/04/01
「頑張ってください!」
木野 由美 :21/04/02
「47Newsで知りました。微力ではありますが、支援いたします。頑張ってください。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。そして47News読んでいただきこの問題に関心を持っていただきありがとうございます。」
Iwakan :21/04/02
「頑張ってください!」
Masato Saitou :21/04/02
「知人が息子さんに迷わず『一心』と名付けました。遠い問題ではなく、自分達の問題だと思っています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「『一心』いい名前ですね。僕も子どもの名前をつける際は、中国の方が読んでも希望を感じる名前であることを意識しました。この問題、社会の温かさが試されている、まさに自分たちの問題ですね。ご支援ありがとうございます。」
二階堂 啓志 :21/04/02
「頑張ってください!」
大原洋子 :21/04/02
「兄は、3歳の時に北朝鮮から何とか引き揚げることができました。母がその苦難を何度も話してくれ、他人事とは思えません。
笑顔の多き日々を願っています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。他人事とは思えませんというのは、本来、日本人全員が持っておかしくない感情だと思います。私たちが今生きているのは多くの偶然が重なったからだと。貴重なコメントありがとうございます。最後まで頑張ります。」
早川千晶 :21/04/02
「ケニア在住32年の早川千晶と申します。両親が牡丹江生まれ、終戦時に父7歳、母4歳でした。祖父母から逃避行と難民生活、引き揚げ経験について聞いて育ちました。そのため私は大学時代に中国帰国者の会に入り、帰国者とその家族に日本語を教えたり、バザーで餃子を作って売ったりなどのボランティア活動に参加しました。その後、ケニアのスラム街で孤児救済の学校マゴソスクールを作り現在に至りますが、私のアフリカでの活動の原点には、両親と祖父母の経験が根底にあります。祖母は逃げながら8/15に出産し、2人の祖母は強姦を逃れるために髪を剃り落として隠れている間、7歳の父が家族の食べ物を得るために街に出てポン菓子を売り歩いたそうです。それでも、自分よりも悲惨な孤児の姿を見て、売り物を全て空腹の孤児にあげて、泣きながら帰ってきたという話を何度も祖母から聞きました。
私が高校生の頃に日本では残留孤児の家族探しが始まると、祖父母は、目を皿のようにして知った名前を探して新聞を隅から隅まで眺め、毎日涙していました。その4人の祖父母も母もすでに亡くなり、83歳の父は満州の記憶だけは未だにはっきりとしています。
博多の祖父と最後に会話した時、私は大学1年生でしたが、祖父は、いま生きていられるのは助けてくれた中国の人たちのおかげだ、中国に決して足を向けて寝られないよと言い、そして、命からがらやっとたどり着いた日本で、まさかあんなに冷たくされるとは思わなかったよ。と言いました。その言葉が今も脳裏に焼き付いて離れません。
言葉に尽くせぬ苦労をしてきた残留孤児の皆さんとそのご家族が、故郷に受け入れられ、優しい人たちに出会うことが出来ることを心から願ってやみません。そして、この歴史を風化させることなく、次世代にも伝えていくことが大切だと年々強く感じており、私も伝えていく努力を続けていきたいと思います。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援そして温かいメッセージありがとうございます。戦争は悪いことですが、仮にその良し悪しを無視しても、当時の日本は外国に日本人を移民させたり、外国の人を日本に連れてきたりする資格がない国だと感じます。国民を「満洲」に移民させておいて、連れて帰らない。挙句の果てに死んだことにする。朝鮮の人を日本に連れてきておきながら、帰国の道筋をつけないまま日本国籍を奪う。外国と関わるというのはその先に生じる責任もうけおうということなのに、そんな先のことを考えないまま目先の利益で行動し、責任を取らない。そして、その犠牲になるのは女性や子ども達。この国の姿勢は今も根本は変わっていないように感じてしまい、日々怒ってばかりです。
ケニアからご支援ありがとうございました。ケニアの話を伺えるのを楽しみにしています。」
21/04/02「頑張ってください!大薄利信様、安河内真知子様、田中光子様からご支援いただきました。ありがとうございます。」
21/04/02「吉武健児様、森鈴子様、具島順子様、渡辺ミチオ様、林田シュンジ様、ほか1名からご支援いただきました。ありがとうございます。」
21/04/02「黒木弘子様、黒澤節男様、高向洋子様からご支援いただきました。ありがとうございます。」
21/04/03 :平田陽一「頑張ってください!」
21/04/03 :Rainbow3「頑張ってください!」
21/04/03 :松本 正「頑張ってください!」
21/04/05 :仲村弘明「頑張ってください!」
21/04/05 :aramaki「頑張ってください!」
21/04/05 :杉浦英子
「中国残留孤児2世の皆様の生活が少しでも改善されますよう祈っております。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。誰もが安心して暮らせる社会を実現したいです。」
21/04/05 :Keiko Takayama
「街頭デモには参加できませんが、皆さまの平安をいつも祈っております」
21/04/06 :宮崎滋政
「知人のFacebookを見て、皆様の活動を知りました。微々たる金額ですが、お役に立てればうれしいです。」
2021年 4月 28日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
4月28日まで、支援資金を募集しています。 → 募金サイトはこちら
あともう少しです。
応援メッセージの一部を紹介します。 皆様の応援メッセージは募金サイトに掲載されています。
応援メッセージ 8
仲村 弘明 :21/03/20
「頑張ってください!」
Momoko :21/03/22
「頑張ってください!」
Sean :21/03/24
「大変ご苦労が多いかと思います。少しでも支援になればありがたいです。私の祖父母、両親は戦後国は違えど朝鮮から戻れましたが、他人事では無い気がします。応援させて頂きます。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援と温かいお言葉ありがとうございます。いただいたご支援を有効に活用し帰国者が祖国に帰って来て本当に良かったと思える温かい社会を実現したいと思います。」
いのうえしんぢ :21/03/24
「わずかなサポートで恐縮ですが、どんどん支援が広がりますように。」
21/03/24「武田正勝様、嶽村久美子様からご支援をいただきました。ありがとうございます。」
新谷肇一 :21/03/24
「私も昭和22年に父母に連れられ、旧満洲鞍山から佐世保港に引き上げてきました。最後の船だったそうです。みなさん、苦労されたと思いますが頑張って下さい。応援します。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援いただきありがとうございます。帰国できたか残留孤児となったかは紙一重だったんですね。国策の犠牲となった残留孤児はきちんと国が支援すべきですね。」
木村眞昭様(妙泉寺住職):21/03/24
「国策の失敗を真摯に問い直すことをせず、多くの棄民を生み続けているこの国の政治を問います。中国残留日本人、空襲犠牲者市民、ハンセン病、水俣病、福島原発避難者、等々、さらに続くのでしょうか。中国残留孤児二世のみな様のご生活が平穏であることを念じます。」
西尾尚子 :21/03/24
「少しでもお力になれたらと思います。応援しています!」
平野 恵実 :21/03/24
「ささやかですが、お力添えできれば幸いです。活動が成功しますように!」
21/03/27「森鈴子様、中西紘二様からご支援いただきました。ありがとうございます。」
中原昌孝 :21/03/27
「中国残留婦人・孤児」1世に寄り添って日本に帰国された2世の方たち、1世と同様に日本政府の戦時中の行為が原因で中国で差別を受けたり、1世と同様に日本政府の帰国妨害により帰国が遅れたにもかかわらず、十分な支援を行わない日本政府の姿勢を一緒に変えていきましょう!!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ありがとうございます。ともに頑張りましょう。特にこのクラファンはゴールではなくスタートです。国会に何を立法させるか議論する必要がありますね。これからもよろしくお願いします。」
藤岡恵美子 :21/03/28
「困ったときは助け合う社会にしたいと思っています。政府が動かないなら,私たちが頑張ります。」
藤野早苗 :21/03/28
「頑張ってください。」
簑田登世子 :21/03/28
「頑張ってください!」
ハヤシザキカズヒコ:21/03/28
「わずかで申し訳ありませんが、中国帰国者の方々の支援は私の師匠であった浅野慎一先生も熱心にとりくんでいた課題でした。政府の無策にはあきれます。後藤先生応援しております。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「力強い応援メッセージありがとうございます。九州弁護士会連合会でも浅野慎一先生からこの問題を学びました。今後の解決の筋道を見つけるのに浅野先生のような学者の知恵が不可欠になってきます。今後ともよろしくお願いします。」
高畠 まみ :21/03/29
「頑張ってください!」
矢野里美 :21/03/29
「頑張ってください!」
藤沼 敏子 :21/03/29
「何もできませんが、応援しています。クラウドファンディングへの導入の仕方が不十分だと感じました。私自身、どこからどうしたらいいのか、ちょっと戸惑いました。もっと宣伝・拡大させる方法を工夫した方がいいかも知れません。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。ご指摘のとおり、この問題に関する支援のお願いについて、社会全体に広くお伝えするには至っていません。方法を模索しているところです。今回は、ほとんど私個人のFacebookやTwitterでのつながりからの拡散となっていますので、やはり限界があります。私が所属している日中友好協会の会員や帰国者自身が発信できるようにSNS講座などもしなければならないと考えています。また、法改正を担う国会議員に対し効果的にこの問題を使えていくためのツールを、今回集まった寄附をもとに構築したいと思っています。貴重なアドバイスありがとうございます。」
相川 良美 :21/03/29
「一番多額の予算が交通費となっていて全国から元孤児やご家族の方が集まられるのでしょうか。元孤児の方々の苦難を思うとずっと寄添い支援してくださる方がいることに安堵します。本当にありがとうございます。これをきっかけに引き続き注目していきたいと思っています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「残留孤児の方々は帰国後全国各地に散らばっています。身元が判明し故郷に帰れた方や、身元が判明したけど故郷に帰れなかった方、また、未だに肉親が見つからない方など様々です。帰国者の多くは帰国後生活保護を受けながらひっそりとした生活を余儀なくされ、帰国者間の横の連絡が取りにくい状況になっています。ただ、その中でも、九州では、福岡県や佐賀県、長崎県の帰国者達が中心となって早い段階で帰国者の会を結成し、現在も活動を継続し、餃子の会など定期的に集まる機会をもつことができています。もっとも、全国すべての地域でこのような活動が続いているわけではなく、中には孤立している方もいると思われます。各地の弁護士会や日中友好協会、大学の研究者らも協力して帰国者達の権利回復の活動を続けている地域もあり、今後は、九州の帰国者の会を中心に、全国の帰国者の会と連携して、支援法改正に向けたロビー活動などに取り組み、全国規模の運動へと盛り上げていこうと思います。ご支援ありがとうございます。」
nawata shigeo :21/03/29
「頑張ってください!」
福留 英資 :21/03/29
「頑張ってください!」
21/03/29「三浦薫様からご支援いただきました。ありがとうございます。」
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「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
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4月28日まで受け付けています。
2021年 4月 26日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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小雨の中 19名が署名・宣伝アピール
中国帰国者2世の会小島会長をはじめ、1世の会木村会長の協力を得て、協会とともに4月4日、天神で署名・宣伝行動を行ないました。小雨の中でしたが、多くの方が足を止めて署名に協力してくれました。
熊本から参加した2世の森田さんは「熊本でもこういう活動ができればいい」と弾んでいました。同じく木村さんは、通行人に駆け寄って署名をお願いし「こんなに協力してもらった」とうれしそうに話していました。
後藤、中原両弁護士が「中国残留孤児」が生まれた経過を話し、国に責任を求める国会請願署名に協力をと呼びかけました。
2世の会の小島さん、日高さん、1世の会の木村さん、川添さんは、帰国者が人間の尊厳を持って生きていけるよう国は責任を持ってほしいと訴えました。
協会の河谷さんは、帰国者の実状を知って運動に参加していると自らの経験を話しました。
幼子を連れて参加した田中さんは「この子の年に中国に置き去りにされたのです。中国の養父母に育てられ生きてこれたのです」と母親の心情を話しました。
NHKと毎日新聞記者が取材しました。


2021年 4月 6日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
4月28日まで、支援資金を募集しています。 → 募金サイトはこちら
応援メッセージの一部を紹介します。 皆様の応援メッセージは募金サイトに掲載されています。
応援メッセージ 7
今村 由紀子 さん 21/03/17
「戦後生まれの私は今月で74歳。父の兄が志願兵で中国侵略に渡りわずか28歳で戦死。祖父は餓死だったろうと話していました。全く国のためにならない侵略戦争の犠牲者であり加害者である若い伯父の死には、長く心を痛めていました。今回伯父の供養の気持ちで、大陸に残された日本人孤児たちの2世の方々への、お役に立てるチャンスがありありがたく思います。目標額が達成できますよう心から願います。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「28歳で戦死とは。一人一人の命よりも国家を大事とした価値観の結果が、アジアの人達2000万人、日本人300万人以上の犠牲を生み出しました。残留孤児もその犠牲ですね。国家体制よりも一人一人の個人の尊厳が大事とされる今の価値観を大切にしたいと思います。ご支援ありがとうございます。」
秦 惟人 さん 21/03/18
「頑張ってください!」
13 さん 21/03/18
「頑張ってください!」
りんちゃん さん 21/03/18
「日本で笑顔で暮らせますように・・・」
桑原 育朗 さん 21/03/18
「頑張ってください!」
博多のとら さん 21/03/18
「国の犠牲者が今尚苦労されている事をチラシを見て残念に思いました。戦争の犠牲者を国は守る義務があると思います。戦争、自然災害、公害等の被害者に援助する事が国の勤めです。この様な支援行為が不要な社会になります様に。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。戦争、災害、公害被害者への援助は喫緊の課題ですね。切り捨てを許してはいけないと思いました。」
青木 ゆかり 様、中野 智子 様、石津 宏介 様、今村 明子 様からご支援いただきました。 21/03/19
小野寺 利孝 さん 21/03/19
「頑張ってください!」
石川 捷治 様、石川 晶子 様、久家 和代 様、白垣 詔男 様、日野 美千代 様、本庄 ノリ子 様、渡辺 亮子 様からご支援いただきました。 21/03/19
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「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
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2021年 3月 30日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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応援メッセージ 6
もとねこ さん 21/03/12
「神戸・明石の日本語教室で中国残留邦人やその家族の方々のことを知りました。政府の支援策はまだまだ不十分だと思っています。どうか皆さんの活動が実ることを祈っています。」
Inamuraharuo さん 21/03/12
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。過去に目を閉じないこと、そして、国策の犠牲者に対しては国が補償をなすことが、平和の大前提ですね。」
富永 悠太 さん 21/03/12
「頑張ってください!」
松原 久 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
酒井 嘉子 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
片山泰都 さん 21/03/13
「大した支援は出来ませんが、心より応援しています。」
椛島敏雅 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。帰国者達が祖国に帰ってきて良かったと思えるような社会が実現するまで頑張ります。」
一色 成子 様ほか1名様からご支援いただきました。 21/03/15
稲津 征雄 様、谷口 壮一郎 様、檜和田 衛 様からもご支援いただきました。 21/03/15
井上 正雄 さん 21/03/16
「私の父が27歳から満州、重慶へと8年にわたり侵略戦争に参加しました。その傷跡が残る歴史に重い政治の責任を考えます。翼賛政治が復興しないことを願うとともに、ご苦労されている皆さんに償いの思いです。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「二度と子ども達を犠牲にしてはならない。残留孤児のような子ども達を作ってはならないという気持ちです。ご支援ありがとうございます。」
Ishitomo さん 21/03/16
「頑張ってください!」
ちーむ さん 21/03/16
「頑張ってください!」
三原 正宏 さん 21/03/16
「頑張ってください!」
森山 皓子 様からご支援いただきました。 21/03/17
河谷 靖 さん 21/03/17
「たくさんの方の支援が集まるよう祈っています。」
Joeakahoshi さん 21/03/17
「同じ日本人なのに国の間違った政策の犠牲になった方々を忘れないで細やかながら支援をしていければと思います。これからも応援しています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。残留孤児をはじめ学徒動員や特攻隊、そして多くの女性や子ども達が国策の犠牲になったことを忘れてはいけないですね。」
呉 月順 さん 21/03/17
「頑張ってください!」
SHIGEKO INOUE さん 21/03/17
「頑張ってください!」
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2021年 3月 29日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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応援メッセージ 5
もとねこ さん 21/03/12
「神戸・明石の日本語教室で中国残留邦人やその家族の方々のことを知りました。政府の支援策はまだまだ不十分だと思っています。どうか皆さんの活動が実ることを祈っています。」
Inamuraharuo さん 21/03/12
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。過去に目を閉じないこと、そして、国策の犠牲者に対しては国が補償をなすことが、平和の大前提ですね。「
富永 悠太 さん 21/03/12
「頑張ってください!」
松原 久 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
酒井 嘉子 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
片山泰都 さん 21/03/13
「大した支援は出来ませんが、心より応援しています。」
椛島敏雅 さん 21/03/13
「頑張ってください!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。帰国者達が祖国に帰ってきて良かったと思えるような社会が実現するまで頑張ります。」
一色 成子 様ほか1名様からご支援いただきました。 21/03/15
稲津 征雄 様、谷口 壮一郎 様、檜和田 衛 様からもご支援いただきました。 21/03/15
井上 正雄 さん 21/03/16
「私の父が27歳から満州、重慶へと8年にわたり侵略戦争に参加しました。その傷跡が残る歴史に重い政治の責任を考えます。翼賛政治が復興しないことを願うとともに、ご苦労されている皆さんに償いの思いです。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「二度と子ども達を犠牲にしてはならない。残留孤児のような子ども達を作ってはならないという気持ちです。ご支援ありがとうございます。」
Ishitomo さん 21/03/16
「頑張ってください!」
ちーむ さん 21/03/16
「頑張ってください!」
三原 正宏 さん 21/03/16
「頑張ってください!」
森山 皓子 様からご支援いただきました。 21/03/17
河谷 靖 さん 21/03/17
「たくさんの方の支援が集まるよう祈っています。」
Joeakahoshi さん 21/03/17
「同じ日本人なのに国の間違った政策の犠牲になった方々を忘れないで細やかながら支援をしていければと思います。これからも応援しています。」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
「ご支援ありがとうございます。残留孤児をはじめ学徒動員や特攻隊、そして多くの女性や子ども達が国策の犠牲になったことを忘れてはいけないですね。」
呉 月順 さん 21/03/17
「頑張ってください!」
SHIGEKO INOUE さん 21/03/17
「頑張ってください!」
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2021年 3月 28日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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応援メッセージ 4
大木 弘毅 さん、渡邉 亮子 さん、高木 美保子 さん、河野 益子 さんからもご支援いただきました。 21/03/09
Kae Nakamura さん 21/03/09
「大変な時代を生き抜いてきた皆さまやそのご家族の幸せをお祈りします。」
たまさか さん 21/03/09
「頑張ってください!」(他に290のプロジェクトに協力)
胡桃澤 伸 さん 21/03/09
「支援法を改正して、支援の対象を2世に拡大する必要がありますよね。皆さんの活動を応援したい。その思いで寄付しました。」
後藤 富和(日中友好協会福岡支部支部長)
ありがとうございます。せめて年金をきちんと支給して欲しいですね。年金を納めなかったのではなく納めることができない環境だったんですからね。それは2世も1世と同じだと思います。
Nen さん 21/03/09
「必要な支援が受けられますように。」
Takiko さん 21/03/09
「皆さんの尊い活動を応援しています。」
岩本 健一 さん 21/03/09
「活動が励みになります。応援しているので、頑張って下さい。」
Mi さん 21/03/09
「プロジェクトが成功し、その後の活動が実を結ぶことを祈りつつ応援しております。」
Joeclash さん 21/03/10
「頑張ってください!」
Harada さん 21/03/10
「応援しています。頑張って下さい。」
田代 知史子 さん 21/03/10
「応援しています。」
千葉 隆司 さん 21/03/10
「帰国者3世です。幸にして私の家族は生活に不自由しておりませんが、他の方々が日々苦労しておられるのを感じております。二世の方々への公的支援が現実となるよう、私も声を上げていこうと思います。」
柘野 功吉郎 さん 21/03/11
「頑張ってください!」
浦 照明 さん 21/03/11
「中国残留孤児二世の方にも闘って欲しいと思います。」
村田 由紀 さん(一社)高知あいあいネット理事 21/03/09
「頑張ってください!」
Mutua さん 21/03/11
「2世の皆さんの声が届いて支援法の適用拡大が成立することをお祈りします。」
山口 桃佳 さん 21/03/11
「皆様が少しでも過ごしやすい社会になるよう願っています。頑張ってください!応援しております。希望大家过得愉快,祝您心想事成!」
後藤富和(日中友好協会福岡支部支部長)
ありがとうございます。中国語でも応援いただきありがとうございます。
森田 太三 さん 21/03/11
「頑張ってください!」
honryu1105 さん 21/03/09
「頑張ってください!」
三島 たかゆき さん 21/03/11
「がんばってください。」
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2021年 3月 27日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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応援メッセージ
横田 つとむ さん 21/03/08
「みんなで頑張りましょう!」
宮野 伸也 さん 21/03/08
「頑張ってください!」
垂見 直樹 さん 21/03/08
「頑張ってください!」
林 陽一 さん 21/03/08
「国民・行政全部が考慮しなければならない、重要な問題です。支援させていただきます。」
Hideyo さん 21/03/08
「国・自治体から通訳機器の貸出を受けれるように頑張りましょう!」
佐和子 さん 21/03/08
「ささやかですが応援させて頂きました。お身体にお気をつけてご活動ください。」
大庭 克彦 さん 21/03/08
「支援手続き終えました。頑張ってください!」
中瀬 倫太郎 さん 21/03/08
「少額ですが、応援させていただきます。」
金見 倫吾 さん 21/03/08
「支援に関わるきっかけをつくってくださり、ありがとうございます。」
金見 倫吾 さん 21/03/08
「支援に関わるきっかけをつくってくださり、ありがとうございます。」
Yosiyuki Tojo さん 21/03/08
「私の母と叔父も満洲生まれの満洲育ちです。ちょっとの違いで残留孤児になっていたかもしれません。皆さんのご苦労は他人事とは思えません。活動頑張ってください。」
Sumiko Katayama さん 21/03/08
「頑張ってください!」
大脇 友弘 さん 21/03/08
「応援してます。頑張って下さい。(リターンは不要です) 」
Nao さん 21/03/08
「微力ながら応援します。」
加藤 君子 さんからご支援いただきました。 21/03/08
冨士本 和博 さん 21/03/08
「困っている人を助けない政治を共に変えて行きましょう。」
田村 広生 さん 21/03/08
「私の両親は中国引揚者でその時中国で生まれた兄も最終の引上げ戦で無事帰国出来ました。その苦労は聞いていますので少しでも支援出来ればと思いました。私も中国とは縁が有り中国で工場を任されたり第二の故郷のような中国です、皆さん頑張って下さい。」
Hiroshi Murakami さん 21/03/08
「微力ながら応援させて頂きます。」
Murakami Satoko さん 21/03/08
「頑張ってください!」
ShuFukushima さん 21/03/08
「頑張ってください!」
武井 賢司 さんからもご支援いただきました。 21/03/08
水野 浩重 さん 21/03/08
「中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会で兵庫県下在住の中国残留邦人への支援活動に参加している者です。かねてより九州の2世の皆さんの活動には注目しております。」
中西 泰代 さん、渡辺 典子 さんからもご支援いただきました。 21/03/09
Reiko Masui さん 21/03/09
「40年ほど前、関東で中国帰国者の支援をしていましたが、まだ問題が解決していないのは残念です。戦争が生んだ悲劇はもう二度とあってはなりません。」
後藤 富和(日中友好協会福岡支部支部長)
応援ありがとうございます。帰国支援事業に携わっておられたのですね。僕が学生の頃、NHKで肉親探し番組が毎日のように放送されていて、意識せずとも、見るからに中国人のような格好をしたこの人が日本人で、長年中国で生活していたのだろうか、なぜ今になって帰国したいと言っているのだろうかと様々な疑問がわき調べる契機となりました。決定的だったのが山崎豊子原作、上川隆也主演の「大地の子」でした。肉親探しのシーンはよく知られていても、帰国後の孤児たちの生活のことはあまり知られていませんね。今では、中国残留孤児の存在自体を知らない世代も多くなってしまいました。
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2021年 3月 27日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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応援メッセージ 2
馬奈木 昭雄さん(弁護士)から応援メッセージ
帰国者二世のみなさんの苦しい現状は日本政府の侵略戦争の遂行と、戦後の放置政策によるものです。
国は自らの責任をはたすためにも支払策を実行すべきです。
石川捷治・晶子さんからの応援メッセージ
私たちは二人とも引揚者で、夫は大連から舞鶴へ、私は塘沽から佐世保へ引き上げました。
私は1才の時で、記憶は全くなし。生前の母は、1960年ごろまでは中国での生活や、引揚げの時の悲しい話をよく話してくれましたが、父は戦争の事を尋ねても教えてくれませんでした。
夫は3歳で帰国し、父はシベリアに抑留,死が知らされたのは、その10年後で、両家共に戦争で生活を破壊されましたが、日本に祖父母というセーフティーネットがあったため、敗戦直後は生きてこれました。
中国の人々の命、生活を日本が破壊したことに思いを馳せることができるようになったのは、私たちの生活が安定した1960年ごろからだと記憶しています。
被害者であり、加害者でもあったという事実には、耐え難いものがあります!
1980年代の残留孤児の方々のお話しは、いつも涙ながらに聴いておりました。1世、2世の方々の生活の困難は、いかばかりかと想像に難くありません。日本が再び戦争を起こさないようにと、願いを込めて、少々ですがカンパをお送りしました。
石川晶子
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2021年 3月 20日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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3月8日より支援資金を募集開始しています。
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応援メッセージ
稲村晴夫さん(弁護士)から応援メッセージ
我が国が日中戦争中に実施した日本人の中国大陸への移民は、中国侵略のための国策として実行されたものでありますが、国は戦後中国大陸に残された人々に対する救済と支援を長きにわたって怠ってきました。そのため、残留孤児・婦人とその2世の皆さんは中国においても日本へ帰国された後もたいへんな苦労をされています。
今、帰国者2世の人々の7割が生活保護に頼らざるをえない生活を強いられている状況は、我々にとっても許せないことであり、この状況は国の責任できちんと改善してゆくべきです。帰国者2世の皆さんに対する国の政策をより良いものへ変えるために、皆で力を合わせ、声をあげてゆきましょう。
日中友好協会福岡県連会長・弁護士 稲村晴夫
高瀬菜穂子さん(福岡県議)から応援メッセージ
中国残留孤児の皆さんの家族との再会の映像は、歴史の悲劇として記憶に深く刻まれています。 帰国者2世の皆さんは、多くが年を重ねてからの帰国のため、日本語が話せず、生活不安、老後の不安の中で、ご苦労が続いていると聞きます。
日本が起こした侵略戦争によって、人生を翻弄された方々の生活保障は国の責任です。そのための運動資金を集めるクラウドファンディングにご協力、よろしくお願いします。
日本共産党 福岡県議 高瀬菜穂子
原中誠志さん(福岡県議)から応援メッセージ
これまでの間、私は「中国帰国者1世」の方々の支援を続けて参りました。県議会において、本県独自の生活支援の施策を県に求め、実現してきました。更に、国に対しても中国帰国者の方々の生活支援のさらなる充実を求めてきました。
皆様と連携した活動により、一時帰国援護、永住帰国援護、定着・自立援護、交流センターの設置を実現しました。そして、老齢基礎年金等の満額支給、老齢基礎年金等を補完する支援給付、配偶者に対する支援策、次世代継承事業も実現できました。
このように、「中国帰国者1世」の方々への支援は大きく前進してきました。しかし、現在の課題、これからの課題は「中国帰国者2世」、「中国帰国者3世」への支援制度の確立です。とりわけ、2世の方々の就労問題、年金問題は喫緊の課題であり、生活支援、年金等制度の確立、医療・介護・福祉の充実を果たすことは、ひいては3世問題を大きく改善することにつながります。
まずは、「中国帰国者2世」の生活支援策を国に認めさせ、速やかな施策・制度確立を図るため、「中国『残留孤児・婦人』2世の生活支援等を求める請願署名」活動を大きく前進させなければなりません。
私は、今後とも皆様と連帯して参ります。「中国『残留孤児・婦人」2世の生活支援等を求める請願活動支援のためのクラウドファンディングを成功させましょう!
福岡県議会議員 原中誠志
村上さとこさん(北九州市議)から応援メッセージ
私の母は満洲生まれです。命からがら帰国できた一人であり、私自身が生きているのも偶然に過ぎないと今日まで思ってきました。
北九州市議会議員 村上さとこ
井下 顕さん(弁護士)から応援メッセージ
私は今から20年前の弁護士駆け出しのころ、中国残留孤児問題に取り組ませていただきました。中国残留孤児問題は、 日本の戦争がひきおこした、 今でも終わっていない、 今に生きる私たちの課題です。
今回のクラウドファウンディングの運動は、 署名活動と同じく、 多くの方々の「心」をいただく運動だと思います。ぜひ、 多くの方の「心」を束ねて、 大きな力にしていきましょう。
六本松総合法律事務所・弁護士 井下 顕
ReadyFor クラウドファンディング
「中国残留日本人孤児2世が笑顔で暮らしていくために、法改正を」
→ サイトはこちら
2021年 3月 13日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留邦人2 世の活動資金を募る
クラウドファンディングに反響:35人から32万7千円
中国残留邦人2 世の活動資金を広くインターネットで募るクラウドファンディングに公開してから3日目の10日現在、35人から32万7千円が寄せられています。
登録方法が分からないという声が寄せられています。その際は、事務所へお名前と金額をお知らせください。後日、事務所から一括して登録します。
「支援法を改正して、支援の対象を2世に拡大する必要がありますよね。皆さんの活動を応援したい。その思いで寄付しました。」「大変な時代を生き抜いてきた皆さまやそのご家族の幸せをお祈りします。」と多数の激励のメッセージが寄せられています。
4月28日(水)がゴールです。身近な人にあなたの活動を知ってもらえるように広報活動を行いましょう!
Facebookに投稿したり、メールで支援をお願いするなどして告知してください。
支援してくれた方にはできるだけ早くお礼を述べ、最後まで頑張るので引き続き見守ってほしいことを伝えましょう。
ご協力をお願いします。
二つの宣伝行動にあなたのお力を!
九州中国帰国者二世連絡会役員会を3月9日に行ないました。クラウドファンディングを広く知らせていこうと二つの宣伝行動を決めました。みなさんのご協力をお願いします。
○○○○読売新聞が報道(3月9日付)○○○○
記者会見に取材していた読売新聞が3月9日付で報道していますのでお知らせします。

中国残留邦人帰国者2世の支援について詳しくは、こちら
クラウドファンディングの募金サイトはこちら
2021年 3月 12日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留日本人孤児 2 世が笑顔でくらしていくために
国会請願費用をクラウドファンディングで募る~記者会見
○○○○朝日新聞が報道(3 月 3 日付)○○○○
九州中国帰国者 2 世の連絡会と日中福岡県連は3月2日、県庁記者室にて2世の国会請願要求実現の為の活動資金をネットで募るクラウドファンディングを始めることを記者会見して発表しました。
帰国者1世の木村琴江さん、川添緋砂子さん、2世の会小島北天会長、日高秀子事務局長と後藤富和弁護士、星野信県連副理事長が同席しました。
朝日、読売新聞、共同通信、KBC、TNC が取材しました。
目標金額100万円 3月8日(月)〜4月28日(水)まで
後藤弁護士は、「中国残留孤児2世が祖国日本に帰ってきて本当に良かった。尊厳をもって暮らせる社会の実現の為にご支援をお願いします。中国残留孤児は、1945年の敗戦時に中国東北部「満洲」に取り残された子ども達です。日本政府の帰国政策の遅れにより、残留孤児が帰国できた時には高齢となり家庭を築いていました。彼らが日本に帰国する際、配偶者や子ども達(2世)も一緒に帰国しました。2世の中には終戦直後に生まれ現在70歳を超えている方も多く、日本語が不自由な中、日本社会で生活していくのは大変厳しく、満足な年金を受け取ることもできません。そのため、2世の多くは生活保護に頼らざるを得ないのが実情です。中国残留孤児2世が日本社会で笑顔で暮らしていくためには、支援法の対象を2世にまで拡大する法改正が必要です。法改正実現のため、国会に陳情に行き、残留孤児2世が直接国会議員に訴えて、2世の置かれた苦しい状況を知って貰う必要があります。残留孤児2世が国会陳情をするために、皆様のご支援をいただきたいと思いクラウドファンディングに挑戦することにしました。
募集期間は3月8日(月)~4月28日(木)までです。目標金額は100万円です。
ネットで日本中に広がることを期待しています。
【お問い合わせ】日中友好協会福岡県連合会 星野信/中村留美子 電話 092-761-0604 090-6428-0012 E メール kikoku@jcfa-fuk.jp
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3月8日より
下記のアドレスにアクセスしてください。
https://readyfor.jp/projects/ncf

「中国残留日本人孤児 2 世」とその支援については、こちら。

支援資金を募金 4月28日まで
2021年 3月 11日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留邦人帰国者2世の活動資金募集
(クラウド・ファンディング)
Ready for に登録
募集期間 3月8日(月)から4月28日(水)
ただいま 募集中
https://readyfor.jp/projects/ncf

九州中国帰国者2世の連絡会
日中友好協会福岡県連合会
連絡先 福岡市中央区渡辺通2-8-23樋口ビル3F
電 話 092-761-0604 mail:kikoku@jcfa-fuk.jp
クラウドファンディング活用の目的
① 帰国者2世の問題について理解を広げたい。
② 国会請願に当たり交通費を捻出したい。
③ 2世のみなさんの活動資金を確保したい。
国 会 請 願 項 目
1
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中国「残留孤児・婦人」2世に対しても、その帰国年や現在の生活の困窮状況等の実情に応じて、新支援法を改正して支援給付金と老齢年金の満額支給の全部若しくは一部を適用する、又は、新支援法とは別の生活支援スキームを創設するなどして、生活保護とは異なる老後の生活保障を行うこと |
2 |
私費帰国の中国「残留孤児・婦人」2世に対しても、新支援法に基づく自立支援通訳の派遣などの地域生活支援事業を利用可能とし、医療・行政サービス、日本語学習が容易に受けられるようにすること |
3 |
生活保護受給者一般に対する厚生労働省の課長問答により、中国渡航期間が2週間を超えた場合に収入認定する生活保護の運用を中国「残留孤児・婦人」2世に適用しないこと |
帰国者2世に人間の尊厳を!
1945年の日本敗戦時、中国「残留孤児」は、幼くして中国に取り残され、40歳、50歳を超えて、ようやく祖国日本に帰国できましたが、日本語も話せず、ふさわしい就職先も斡旋されないまま、低賃金・過酷な労働を余儀なくされ、貧しい生活を強いられてきました。
しかし、このような境遇は、国の満州移民政策や日本軍による民間人の置き去り、国の引揚事業の放置と遅れという戦前、前後の国策がもたらしたものであって、中国帰国者自身の責任によるものではありませんでした。
そこで、2002年を皮切りに「残留孤児」の約9割2211名が原告となって国家賠償訴訟を起こし、その結果、2007年議員立法により、「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び帰国後の自立の支援に関する法律の一部を改正する法律」(新支援法)が成立し、国民年金の満額支給と支援給付金の支給などを内容とした新たな支援策が採られることとなりました。
その後、2014年兄弟と別れて日本に来た配偶者に対し、中国「残留孤児・婦人」が死亡した場合でも支援給付以外に国民年金の満額の3分の2相当額を支給する改善が図られました。
しかし、中国「残留孤児・婦人」2世には、一切適用されていません。
尊厳のある安定した老後生活が送れるよう2世にも「新・支援法」を適用してほしいと請願するものです。
帰国者2世 日高秀子さん
日高さんは1953年(昭和28)2月、中国遼寧省阜新で5人の子女の長女として出生。
終戦後、中国に留まった日本人の母と中国人の父の長女として育ち、中国で小学校の先生を25年間勤めました。
日中国交回復後の1998年、両親・弟家族全員で福岡県行橋市に住む母親の弟を頼り帰国。
母親一家は戦前、福岡県から旧満州へ。祖父は阜新炭坑で働き、母は同じ炭鉱夫で祖父と同僚の中国人と結婚。終戦時、一家は母を残して帰国しました。
高校卒業後、教師を目指し師範学校に進み、生まれた村や阜新市の小学校の先生などを務め、26歳で炭鉱夫の夫と結婚しました。
「両親と弟一家6人が帰国した2年後、私たち夫婦と子ども3人で帰国。私が45歳、子どもが18歳の時でした。中国に残るかどうか大変迷いましたが、71歳の母が腎臓がんを患っており、早く帰国したい一心でした。父は帰国の1年後、母は12年後に亡くなりました」。
「日本語学校に通うため、福岡市東区に転居。日本語が不自由なため、パートの仕事しかなく、野菜の選別や刺身の詰め合わせ工場などで働き生活を支えるのがやっとでした。私たちは国策による侵略戦争の被害者。日本政府へ2世への生活支援を求めることは人間の尊厳を守る運動です」と呼びかけている日高秀子さんです。
写真:2019年10月6日天神パルコ前
署名を呼びかける日高秀子さん(右端)
中原昌孝弁護士(左端)
九州中国帰国者2世の連絡会 小島北天会長
天神で署名をお願いする小島北天さん
小島北天さんは、1947年に奉天(現在の瀋陽)で生まれ。
1996年に49歳で帰国。
支援交流 センターで8ヶ月の日本語教育を受け、日本での生活が始まりました。
日本語がうまく話せず転職を余儀なくされ、正社員で働けたのはわずか4年間だけで、受け取っている年金は1ヶ月一万九千円で74歳になった今でも働かないと生活できません。
60歳以上の二世は6割の人が生活保護に頼らざるをえません。
新支援法を適用してほしいのは二世の願いです。
苦難のたたかいを体験した一世のみなさんに励まされて2014年2月23日に「福岡県中国帰国者二世の会」が発足。
長崎にも広がっています。
店が捨てた野菜を拾って食べました 安娜さん
中国は私の故郷です。80年代から改革開放で経済は迅速に発展し、今では貧困を消滅しています。コロナウイルスも乗り越えあらゆる困難を克服し、山奥の少数民族もよい環境の新住宅に引っ越し幸せになっていす。日本は母の祖国で先進国です。戦後75年になりました。でも、帰国者二世には少しの支援もありません。後から帰国した二世は貧しい生活をしています。午後6時過ぎ、お店の弁当・食品が半額になると家族全員二日分を買います。また、お店が捨てた野菜を拾って食べました。何でこの様な生活になったのでしょうか。
中国残留孤児と二世は戦争被害者だけでなく、日本国の政策の被害者です。長い間、帰国を拒まれ「戦時死亡」ということで戸籍を抹消されました。「身元保証人」制度を取られ高齢者は必ず未婚の子供一緒に帰国しなければならないという制約がありました。二世が帰国できるようになった時、二世の年齢は40歳以上60歳ぐらいになりました。もし政府は早めに残留孤児を引き受けていたなら、帰国二世の年齢層は若かかったはずです。日本語が出来ないから大変な仕事をして、体が病気になり、生活保護を受けました。二世の配偶者の両親は中国にいます。入院した時必ずお見舞いのため中国へ行きます。二週間で帰国が出来ないと保護費から生活費と交通費も削減されます。大変な生活、大変な人生です。私達の要求は一世配偶者のような安心な老後生活が希望です。皆様、二世の要求を実現する為に署名に支援してください。

長崎・福岡二世の会と交流
交流会参加の長崎・福岡の2世会員
長崎二世の会が2019年3月に発足以来2回目の交流会を2020年12月4日、長崎にて行ないました。
南誠長崎大学准教授が顧問として支援していただいています。福岡から2世の会小島会長、日高事務局長、星野協会県連副理事長が参加。
6月の協会全国大会後に国会請願をしようと協会へ要請することを確認しました。
戦争は二度とあってはいけない!川添緋砂子さん
川添緋砂子九州帰国者の会事務局長は、
「戦争は私たちのような犠牲者をつくりました。帰国者2世も戦争の犠牲者です。帰国が遅れたのは国の責任です。帰国者2世が人間らしく生きたいという願いがかなえられるよう署名をお願いします」
と呼びかけました。
⇐天神で署名をお願いする川添緋砂子さん
福岡県・福岡市・北九州市へ「要望書」提出
福岡県には2015年と2018年、二世にも「 新 ・ 支援法 」を 適用して欲しいと「要望書」を提出しました。その後、福岡市、北九州市にも「要望書」を提出しましたが「国に伝えます」という回答で進展はありません。
二世の会第5回総会では、国へ請願しようという話し合いの末、新支援法の適用を中心に、医療通訳など日常生活で人間らしく生きたいという三項目の要求を盛り込んだ請願署名を2018年3月より始めました。
2019年6月に「院内集会」を行い、国会議員へ働きかけました。
今年6月には国会へ請願しようと意気込んでいます。
院内集会 日中友好協会の代表が参加

福岡の代表(右から)松山盛利会長
日高秀子さん、星野信さん

満蒙開拓移民とは:国策で満州へ
満蒙開拓移民は、1931年の満州事変以降、日本政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民のことです。
「満州開拓移民推進計画」500万人の移住を閣議決定
1936年8月25日、広田弘毅内閣は、20年間に500万人の日本人の移住と移民住居100万戸を建設するという計画を決めました。10万6千戸の人たちが移住しました。1942年以降は成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」として8万6530人が満州へ送られました。
青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は、31万8千人にのぼり、帰国できたのは11万人あまりといわれています。
戦後中国に取り残され、中国人の養父母に助けられた「残留孤児・婦人」は、40歳、50歳になってようやく帰国できました。帰国の遅れも国の責任です。
中国残留孤児って何ですか
中国残留孤児って何ですかと質問をいただきましたのでお答えします。
戦時中、日本は、中国東北部に傀儡国家「満洲国」を作り、そこに多くの日本人を入植させました。
1945年8月9日、「満洲」にソ連(現在のロシア)の軍隊が侵攻しました。その時には「満洲」の防衛にあたるはずの関東軍は撤退しており、お年寄りと女性と子どもだけが残され、ソ連軍に殺されていきました。逃げまどう女性達はせめて我が子の命だけでも助けて欲しいと、子どもを中国人に預けました。中には虐殺の中で奇跡的に助かった子どももいました。こうやって中国に取り残され中国人に育てられた日本人の子どもが中国残留孤児です。
戦後、日本政府は、中国に置き去りにした子ども達は全員死亡したとして、帰国させませんでした。本格的な帰国事業が始まったのは1980年代に入ってからでした。その際も日本政府は帰国に厳しい条件を課したため多くの孤児達が帰国できませんでした。
孤児達がようやく帰国を果たせたときには40歳、50歳に達しており日本語や日本の文化、自分の名前すら忘れていました。そうやって日本語も話せない帰国者に対し、日本政府は6か月間日本語教育をしただけで、自活することを強いました。そのため多くの帰国者は仕事に就けず、年金ももらえず(年金を払っていないという理由で)、生活保護をもらいながらひっそりと暮らさなければなりませんでした。
日中友好協会福岡支部支部長 後藤富和
(クラウド・ファンディング) Ready for
中国残留邦人帰国者2世の活動資金募集
募集期間は、3月8日(月)から4月28日(水)まで
ただいま募集中 https://readyfor.jp/projects/ncf

2021年 2月 28日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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終戦後、重なる不運で中国から帰国することができなかった残留婦人の波乱万丈の半生を描く、実話をもとに作られたお芝居です。
主演:神田さち子
原作:良永勢伊子
演出・上演台本:杉山義法
日時:2018年3月23日(金)
①13:30~(開場 13:00)、 ②19:00~(開場 18:30)
会場:福岡市早良市民センター大ホール
前売:一般 2500円(当日 3000円)、中・高・障がい者 1500円
ローソンチケット:Lコード 82644
※ 収益金の一部は九州北部豪雨災害の被災地への支援金といたします。
主催:神田さち子ひとり芝居福岡実行委員会
後援:福岡市・福岡市教育委員会・西日本文化協会・朝倉高校同窓会・西南学院大学・西南学院同窓会
2018年 3月 2日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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場所: 福岡日中文化センター
(中央区渡辺通2-8-23-3F)
日時:2017年10月6日(金)
6:30pm
700円(学生300円)
宋小偉さん。
1986年4月生。中国江蘇省出身。
福岡教育大学に留学。
大学院卒業後、行橋市内の幼稚園に勤務。
留学中に知り合った夫と結婚。一児の母。
福岡県弁護士会主催残留孤児シンポジウムで通訳を引き受けるなど何事にも積極的。
福岡日中文化センター/日中友好協会福岡支部
nc.fukuoka@gol.com
2017年 10月 1日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 日中文化講座 | Permalink
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永遠の友好願い 献花と黙とう
8月15日猛暑の中、福岡市西区西部霊園の墓前で中国帰国者九州連合会による平和祈願祭が開催され、福岡県内や熊本県から帰国者30人が参加しました。
協会福岡支部から当時久保副支部長・大井理事長が参加。
木村琴江会長のあいさつに続き「第71回終戦記念日平和宣言」が中国語で宣言され、会場には日本語翻訳文が配布されました。
木村会長は「終戦後の中国で私たちは日本の鬼子と差別されました。帰国しても日本語が話せず『日本に何しに来た中国に帰れ』と言われ、自分自身が中国人か日本人かさえ分からなくなりました」
「国交がなく帰国が遅れ、日本の義務教育も職業訓練も受けられませんでした。現在は貧しい生活で過ごしています。政府に戦争が残した悪の解決を強く要求します。日本と中国の友好が永遠に続きますように、戦争がおこらないように平和を祈ります」と力強く訴えました。
亡くなられた方々を偲んで献花と黙とうをささげました。
2016年 10月 8日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「『会社にも人権がある』と労働者への思想差別をしている幹部の発言が、法律の勉強を始めたきっかけ」と語る椛島敏雅さん。 高卒後就職した中部電力(名古屋)で思想差別を経験。弁護士をめざし22歳で退職。尊敬していた先輩から「8時間働いていたんだから最低8時間は勉強しなさい」と励まされます。 帰福後、新聞配達をしながら通信教育で勉強。29歳で司法試験に合格、「強い者の味方だけはしたくない」とクレジット・サラ金被害者救済や帰国者支援に尽力された人生を紹介します。
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甲子園初出場・初優勝の
三池工業高校を卒業
椛島さんは1947(昭和22)年10月、柳川で出生。三池工業高校電気科で学びます。在学中に同校野球部が夏の甲子園大会に初出場し初優勝。その活躍は疲弊していた旧産炭地の人々に元気をもたらしました。
中部電力での思想差別
弁護士めざすきっかけに
高卒後、中部電力(株)に就職。愛知県の知多火力発電所でアメリカ製発電プラントの運転勤務、一日三交代でした。
60年代後半、鉄鋼や電力など当時の基幹産業では職場の民主化を求める労働者に対し、様々な思想攻撃が行われていました。
椛島さんも上司に呼び出され「民青や労音には入るな、誰それとは付き合うな、彼らは発電所を止めようとしている。会社にも人権がある」と言われ、活動家のあぶり出しに遭遇。上司の強要を断りました。
自分に学問のないことを痛感し、早速「人権とは何か」という本を精読。これが弁護士をめざすきっかけとなりました。
友好協会が100万署名
「帰国者支援法」を実現 32歳で弁護士登録。故諌山博弁護士の福岡第一法律事務所に入所、日中友好協会にも加入します。
2004年から「中国残留孤児福岡訴訟弁護団」事務局長として帰国者支援に尽力。全国15か所で集団訴訟、協会は百万署名に取り組み支援。
07年12月「新支援法」を成立させ国と和解します。
「開拓団の人々は、国の『王道楽土』建設の呼びかけで関東軍の盾としてソ満国境に送り込まれ戦争の犠牲に。終戦後は『現地土着方針』で置き去りにされ、遅れて帰国した孤児たちは言葉の壁や生活苦に苛まれています。手厚い保護は当然」と語ります。
日本文化のルーツは中国
日中不再戦は人生の道標
「中国人養父母の慈愛の深さと艱難辛苦を体験している帰国者の純真さに多くのことを学びました。中国あっての日本文化の発展、日中友好と不再戦は人生の道標」と語る椛島敏雅さんです。
2016年 7月 10日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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何事も困難な時に引き受けるのは勇気が必要。 戦後スタートした日中国交回復運動。 今日まで66年間の道のりは平たんではありませんでした。 60年代「文革」の勃発とそれを支持しなかった友好協会への攻撃や妨害が続き、中国側から関係断絶を宣言されました。 72年、国交は回復しても事態は継続。 中国側が「文革」の誤りを認め「協会」への反省を表明した99年までは冬の時代。 その間82年から98年までの16年間、福岡県連会長を務めた林健一郎さん。 困難な時期、先頭に立って皆を励まし牽引した人生を紹介します。 |
伯父の勧めで弁護士に
日中友好協会に加入
林健一郎さんは1935(昭和10)年、福岡市の旧荒戸町で出生。
九州大学経済学部を卒業しましたが仕事がなく裁判官をしていた伯父の勧めで弁護士をめざします。
弁護士登録は30歳、福岡第一法律事務所に所属し沖縄返還同盟福岡支部長としても尽力。 72年に沖縄の祖国復帰が実現します。
福岡市長選に立候補
九州総評弁護団で幹事長
80年、45歳の時、市長選に立候補。 市政革新を願う幅広い知識人や団体・個人・政党を結集した「福岡市政をよくする市民の会」を結成しての選挙運動でした。
その後福岡第一法律事務所から独立し「林法律事務所」を開設。
当時は高度経済成長と共に国労解体など、職場に合理化の嵐が吹き荒れた時代。 林さんは九州総評弁護団幹事長や国家公務員労働組合・高校や私立学校など、各教職員組合の顧問として労働問題の解決に奔走します。
交流ない時期に会長就任
「聖戦碑」抗議運動を推進
82年、要請を受け県連第22回定期大会で会長に。 国交は回復していたとはいえ中国側と協会は関係が断絶していた時代です。
林会長は新年のあいさつで「腰を落ち着けじっくりと…」と会員に呼びかけました。
この時期日中文化センターも発足、交流がなくても中国の文化に親しみ理解を深めようと、きり絵や書道・静吟、太極拳など多彩な文化活動が広がりました。
中国帰国者への援助や国会請願署名にもとりくみました。
福岡市内の旧陸軍墓地(国有地)に「大東亜戦争は聖なる戦い」と侵略戦争を美化する慰霊碑が建立されている問題が発覚。 協会は碑文の書き換えを求め、福岡市に要請。 マスコミや国会でも取り上げられました。
広州のテレビ局が取材
友好・交流 回復の兆しに
中国側と協会の交流が回復する直前、広州のテレビ局が林さんを取材。 協会が取り組む日中友好運動の内容が中国で放映されました。
長江の如く滔々と流れる友好運動の歴史には未来があります。
冬の時代に尽力された林健一郎さんの人生は深く刻まれるでしょう。
2016年 6月 16日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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県連会長10年
運動の先頭に
「2・26事件の10日前に生まれ、終戦の時は9歳。 長崎に原爆が落とされた8月9日、故郷の串木野も空爆され町は全壊しました」病院の応接室で静かに語る武田正勝さん(80歳・元県連会長・武田病院会長)。 出生時や終戦時の出来事は、医師として人命を守る傍ら、帰国者支援や日中友好運動にかかわり福岡県連会長を務めた人生を方向づけたようです。 様々な出来事に真正面からかかわり、真実を求めてきた人生を紹介します。 |
三代目の医師業継ぎ
中国で針麻酔を習得
武田さんの生家は鹿児島県串木野市で代々続く医院。
初代の祖父武田平九郎さんが明治初めに小児科の医師として開業しました。
長崎大学医学部を卒業後、九大病院に外科医として勤務。 一時、串木野に帰り医院を引き継ぎました。
福岡に戻り55歳の時、武田病院を開院します。
ニクソン大統領が訪中、日中国交が回復した1972年当時、中国の針麻酔術が紹介されます。
さっそく医療研究のため知人と上海へ、華東病院や療養施設で学びました。
通訳で日本語教授の金正林氏から「日本語の教科書が不足している」と聞き、帰国後呼びかけます。
飯塚の教職員組合から大量の教科書を寄贈してもらい、大阪の中国領事館を通じて送付しました。
残留孤児の報道見て
帰国者の身元引受人
中国残留孤児の帰国が開始された1980年当時、西日本新聞で「身元引受人」を募る記事を見た武田さんは早速名乗り出ます。
九州ではただ一人。上京し帰国者の金さん一家と面会。福岡での住居の確保や職業を世話しました。
「戦争展」成功に全力
協会で近現代史を学ぶ
開院後、保険医協会の会長を務め平和運動にもかかわります。
長崎大出身の先輩が731部隊の細菌戦に医師として関わったことを知らされ、日中戦争とはどんなものだったかと自問自答。
65歳の時、日中友好協会で岩佐英樹氏(現県連副会長)が講義する「中国近現代史」の学習会に参加。
以後、保険医協会や友好協会が中心となった「平和のための戦争展」の開催に尽力しました。
会長引き受け、文化
行事成功の先頭に
2003年、67歳の時要請され会長に。
以後協会の様々な諸運動の先頭に立ち、前進座や中国の楽団・京劇の公演などにはチケット代をカンパ、帰国者の方を招待しました。
「中国には奥深い文化がある。それらを受け入れ今日の日本があるのも事実。 友好と平和を願う活動は生涯の仕事」と語る武田さんです。
2016年 6月 2日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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「太極拳は何歳からでも始められます。体幹の筋肉が鍛えられ、始めた時の体力年齢を維持できます。性格がでると言われ私も気が長くなりました。風格のある、優雅できれいな太極拳が目標です」 香春岳山麓の自宅で静かに語る中村仁美さん。 田川で生まれ友好協会入会とほぼ同時期から始めた太極拳歴は30年以上。 労組書記として麻生セメントの労働者と苦楽を共にし、事務局長として60数年の田川支部の活動を発展させてきた人生を紹介します。 |
麻生セメント労組書記に
一番ヶ瀬委員長と出会い
田川市丸山町で出生。 お父さんは八幡製鉄所の労働者でしたが、知り合いの和尚さんから僧侶としての教示を受けます。
戦後、田川の古いお寺を引き継ぐため宗像から越してきました。
高校卒業後、20歳の時に麻生セメントの労組書記に。
間もなく一番ヶ瀬さん(現県連顧問)が組合の委員長になり、この時の運命的な出会いが、その後の田川支部の発展を支えることになります。
当時、高度経済成長と共にセメント業界にも合理化の波が押し寄せ、会社側は三次にわたる人員整理を強行。 900人いた組合員が300人ほどになりました。
仲間が励まし 難病乗り越え
太極拳を継続
36歳から太極拳を始めます。 きっかけは初参加の県連大会で太極拳の演武を見たこと。
金子さん(柳川)を講師に招き田川で無料講習会を月1回・1年間開きました。
10人でスタートした太極拳サークルは25周年記念講習会が行われた2009年には100人にまで発展。
12年前、難病にかかったり、股関節の人工関節置換手術を受けたりと苦しいことが続きました。
「太極拳はもうできないと諦めていましたが仲間が励ましてくれ、再び始めました」と語る中村さん。
北京体育大学にも留学し研鑽を重ねます。
2年前、全国の本部指導員になりました。
二胡コンサート・
「殉難者の碑」建立に情熱
1999年、吉林省の民族楽団コンサートを取り組みますが、開催直前、来日できないことに。
既に900枚近くチケットを販売していましたが購入者には翌年、劉福君さんのコンサートを開催することで了解していただきました。
お詫びコンサートは大盛況。 以降、2年毎に開催することになります。
収益金は「中国殉難者碑」の建設資金や北京の残留孤児老人ホーム建設の義援金に活用。
二胡サークルも誕生しました。
「中国問題学習会」開き
活動のすそ野広げたい
「太極拳や二胡のサークル活動で裾野が広がっています。 中国問題の学習会にも取り組み、もっと友好運動を広げたい」と語る言葉と人生には、しなやかな女性に秘められた強さが感じられます。
2016年 5月 1日 田川支部 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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「日中と出会い 心豊かな人生に」

「今の自分があるのは日中友好協会との出会いがあったからこそ、事務局で働けたことに感謝」視力・聴力が衰え不自由な生活ながら、開口一番こう語る永田さん。
「四十七歳から六十七歳までの二十年間、日中友好運動にかかわり、多くのすばらしい人々と出会えたことは人生の支えとなった」。
県連六十年の歴史の中で、事務局員として活動された人生を紹介します。
未熟児で出生 必死に育
ててくれた母の愛情に
感謝 一九三二(昭和七)年、福岡市内で双子で出生。永田さんは未熟児でした。
まもなく父親の里、宗像に転居。当時は医者もいなく、母親は八月でも永田さんを柳行李に寝かせ、湯たんぽを二つ入れて必死に育てました。
五歳の時に父親が他界、母と子どもの四人で母の実家がある日田市へ。
青春時代はうたごえ運動や演劇にかかわり結婚。夫の仕事の関係で四十二歳の時、福岡へ転居します。
吉武健児さんと出会い
日中友好協会事務局へ ある日、選挙事務所でビラ折をしていた時、吉武健児さん(当時県連事務局長、現中国語教師)との出会いが友好運動にかかわるきっかけになります。
吉武さんから「電話番と帳簿付でいいから来ないか」と誘われます。事務所は「天満ビル」と聞き面接に。ビルらしき建物は見当たらず、旧福岡県庁前にある水鏡天満宮横の木造アパート二階の一室が事務所でした。ギシギシと音がする階段を上り八坪(十六畳)ほどの部屋で小林重光さん(故人)当時県連理事長の面接を受け働くことになりました。
全国大会に参加
平和友好運動に確信 五十歳のころ、奈良で開かれた日中友好協会の全国大会に代議員として参加。各地で取り組まれている友好運動や帰国者支援活動、仲間づくりの熱心な取り組みに「目からうろこが落ちる」感動を覚えます。
毎年十二月から三月までは中国語教室開講の宣伝です。電柱にポスター貼り、公園でビラ配りなどして募集。会議の資料作りや中国人留学生ソプラノ歌手の支援コンサート、県連や支部、日中文化センターの会計実務など多忙な業務をこなしながら、静吟会で詩吟を学び中国語の勉強もしました。
日中文化センターの設立や天満ビルからリバーサイド、現在の事務所への移転など、六十年の歴史の重要な節目を事務局員として支えてきました。
市民に認知される団体
になってほしい 「日中の様々な活動を陰になり日向になって支えてくれる人たちこそ本当の貢献者。運動の中身は素晴らしい、もっと市民の中に溶け込んでいってほしい」と熱く語る永田さんです。
2016年 2月 9日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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福岡県中国帰国者の会(木村琴江会長)は、8月15日、福岡市西区の市立西部霊園「中国帰国者乃墓」の前で、平和祈願祭を開きました。
当日は射るような厳しい太陽のもと、県外からの参加者も含めて40名が故人を弔うとともに平和を誓い花を捧げました。
祈願祭は同会が2002年に発足以来、毎年開かれています。
木村琴江会長は「日本は中国やアジアを侵略し、多くの人々を殺害しました。家庭を壊し、妻と子を奪いました。私はまだ幼く、寒さと飢餓のため痩せこけ、死に直面しましたが、善良な中国の養父母が助けてくれました。そして、大人になるまで育ててくれました。この恩は永遠に忘れません。『平和は幸福の本。戦争は災難の根』です。私たちは安倍政権の戦争政策に断固反対し、「憲法」を「戦争憲法」に変えることに反対します。日本と中国が永遠に友好あるように、戦争は絶対反対です。」と平和への誓いを力強く語りました。
墓は1994年に建立され、現在17柱が納められています。、
今年も県連の松山盛利副会長、福岡支部の当時久保正弘副支部長、大井信明事務局長、名和田澄子理事が参列しました。
2016年 2月 5日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新聞報道に大きな反響・電話注文が次々に
戦後70年にあたる昨年9月、中国帰国者九州連合会が、18人の会員の“壮絶な体験記”をまとめ、中国語の“戦後七十年回憶録”を発行しました。

これを知った会員からの「ぜひ日本語翻訳版を出してほしい」との要望に応えて、協会県連は、中国語を学んでいる会員の協力を得て、全篇を翻訳しあげ、「中国語原文付きの日本語翻訳版」を昨年末に出版に漕ぎつけて、12月25日報道関係に発表しました。
発表の翌日から「新聞を見たけれど…」と言う電話での注文が、県外も含めて次つぎにかかって来て、「自分も引き揚げ者だ。帰国者のために何らかの協力をしたい」など、電話での注文だけで既に100冊を超えて、 事務局では反響の大きさに驚くやら、喜ぶやら…。

毎日新聞2016年1月7日 地方版
戦後七十年回憶録
日本語訳出版
「平和で安心な世の中に」 元中国残留孤児の手記まとめ /福岡

日本語翻訳付版(B5 188P)
1冊1000円+消費税です。
遠方の方の郵送料は82円です。
問い合わせ:日本中国友好協会福岡県連合会
電話/FAX 092-761-0604
nc.fukuoka@gol.com
2016年 1月 17日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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日中友好協会 福岡支部の第14回「悠久の中国・山東の〝世界遺産〟泰山・三孔を巡る旅」は、10月31日から11月4日まで5日間行ってきました。
参加者は総勢17名。
31日韓国仁川を経由して、済南市からその日のうちに、泰安市に入り、1日朝7時過ぎからホテルを出発、泰山に向かいました。
10時頃には頂上下の、昨夜の雪がかすかに残る「南天門」に到着。
7千段と言われる石段を昨晩から登って来た若者、孫に手を引かれる老人などと挨拶しながら、「五岳独尊」などの石刻を見ながら、玉皇頂まで登りつめました。
下山して、歴代皇帝などが封禅した「岱廟」を参観して、曲阜へ入りました。
2日、曲阜は孔子の街で、ホテルを出るとすぐ「孔廟」の城壁があり、城門では、歓迎の踊りと、音楽が響いています。
流石「楽」を貴ぶ孔子の郷です。
紫禁城を模したと言われる「孔府」、歩いて回れば半日はかかるほど広大な孔子の子孫たちの墓地「孔林」は、林の中の墓碑の数は不詳?だそうです。
昼から、山東省省都の済南に向かって高速道路を北上。
済南は水の都で、先ず市の中心部に広がる「大明湖」を見てまわり、次いで〝天下第一泉〟といわれる「趵突泉」をみました。
この公園には、1928年5月3日の、日本軍の「山東出兵」による虐殺事件を記念した「五三惨案紀念館」があり、閉館間際の慌ただしい時間に見学することができました。
3日は済南駅から「新幹線」に乗って沿線の景色を楽しみながら青島駅に着き、昼食の「麗晶大酒店」に入ると、「熱烈歓迎日本国福岡県日中友好訪問団光臨青島!」と大書した赤い横断幕が私たちを迎えてくれました。
歓迎の大宴会では、政協会議青島市委の李学海副主席から暖かいスピーチから始まり、大井信明団長のお礼が交換され、心温まる交流となりました。
これは全て、青島で育った帰国者の川添緋砂子さんの心のこもったアレンジによるもので、旅行団一同、驚きと感謝の気持ち、日中ふたつの祖国を思う川添さんの心情の深さを感じて、涙ぐむ人もいました。
2015年 12月 7日 福岡支部 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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映画 『望郷の鐘』 ホームページはこちら。
ダイジェスト動画
みずからも満州で過酷な体験をしながら、生涯を残留孤児たちの肉親さがしに捧げ、献身的な愛で支えた山本慈昭。 その生涯をたどった物語。
2015年 10月 26日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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二十九年前、43歳で帰国した木村さん。 当時、残留孤児など中国帰国者のほとんどは日本語が話せず、職場や地域社会で孤立。 お互いどんな生活をしているかわからない状況でした。 当時、ハンセン病問題で元患者さんたちが立ち上がり、国に勝利して制度改善を勝ち取ったことを知った木村さんは、「自分たちが置かれた現状を変えよう」と帰国者の会」を立ち上げ運動を開始。 全国で集団訴訟を取組み、やがて帰国者支援法を成立させます。

穏やかな表情にも苦難
を生き抜いてきた強さを
秘めた木村琴江さん
二歳半で残留孤児に「この
子だけでも」と母が哀願 両親は青森県出身、家族全員で開拓団として満州国間島省琿春県(当時)へ。
そこで木村さんは誕生、父親はシベリアに出征します。
一九四五年八月九日、ソ連軍が参戦、母親は幼な子七人を連れて逃避行。
西太廟難民収容所で母親は、王世代という中国人に「子どもを抱えて食べ物もなく、私も病気で死ぬのを待つだけです。どうかこの二歳半になる女の子(琴江さん)だけでも連れて行って助けて下さい」と泣いて頼みます。
王さん宅も子供がたくさんいたので妹の于さん宅に引き取られ、于秀琴と名付けて育てられます。
養父が病床で「日本人だか
ら将来帰国を」と告げる 幼い頃、周りの人から「小日本鬼子」といじめられた琴江さん。
養父母は日本人であることを明かさず愛情を注いで育てます。
小学校を卒業後、十六歳で働きだしたころ、養父が病床で「お前は中国人ではない。
日本人だから大きくなったら故郷へ帰ってみなさい」と告げられ、引き取られた経緯を知ることに。
十九歳で結婚、一男三女をもうけます。
国交回復後の一九七三年、中国の公安局から調査を受け「日本人孤児」として登録されます。
二十九年前、43歳で帰国
中華料理「帰郷」を開店 一九八六年九月一九日、身元は未判明のまま家族全員で帰国。
母国に帰れた喜びもつかの間、言葉は通じず体調を壊し病気に、二年間生活保護を受けます。
自立しようと努力の末、小さな中華料理店を福岡市東区箱崎に開店。
店名は「帰郷」。 見知らぬ両親の母国に帰れた喜び、ここを拠点にこれからの人生を強く生き抜く気持ちを込めた店名です。
60歳で「帰国者の会」立ち
上げ「支援法」制定へ全力 「九州の帰国者の会には百四十人以上います。高齢で日本語をほとんど話せず生活保護を受けて最低限の生活、老後が不安です。『支援法制定』に日中友好協会や弁護士の方が支援してくれ感謝に絶えません。日本人として当たり前の生活がしたい。これからも運動を続けます」九州地区・福岡県中国帰国者の会会長、協会福岡支部理事を務める木村琴江さんです。
2015年 9月 12日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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養父母の愛 中国で教師
「私の祖国は二つ、戦後七十年の今、心から友好を願っています」 九歳の時、戦後の逃避行で父母は他界。 旧満州ハルピンで残留孤児になった川添さんは養父に助けられ九死に一生を得ます。 養父母の愛情を受けながら必死で中国語を覚え、師範学校を首席で卒業。 小・中・高の教師を務め、四十七歳で帰国。 日本語を習得し帰国者支援に生涯をかける生き方には「友好平和」を願う強い信念があります。
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家族五人で逃避行、両親は
収容所で死亡、残留孤児に
川添さんの故郷は佐賀県唐津市北波多町。
郵便局員の父は転勤で旧満州の延吉市に、そこで出生します。
昭和二十年八月、父は郵便配達中にソ連の空爆に遭遇。
当時九歳(小三)の川添さん、二人の妹と両親、一家五人の逃避行が始まります。
草や木の根を生のまま食べ、夜は木の下で寝ました。
ソ連軍に遭遇し牡丹江の収容所に、母はそこで出産し死亡。
赤ちゃん(妹)は中国人に引き取られます。
その後移されたハルピンの収容所で父も息を引き取りました。
餓死寸前、養父に救わ
れ九死に一生を得る
飢えと寒さで餓死寸前、亡くなった父親を立って見送ることもできませんでした。
その日の夜、「まだ生きている」と中国人五・六人が探しに来てくれました。
父が亡くなる直前、中国の友人に川添さんたち姉妹のことを頼んでくれていたのです。
妹も他の中国人に引き取られて行きました。
「言葉の壁だけでなく
人生の壁も乗り越えな
ければ」
養父は仕事でハルピンに単身赴任で来ていました。
男手ひとつで川添さんを育て「早く元気になって学校に行きなさい」と励ましました。
「これから中国人と暮らす、言葉の壁を乗り越えなければ」と必死で中国語を覚えます。
養父は「お前の命を救ったのは、老後の面倒を見てもらうためではない。 社会に役立つ、立派な人間になってほしいからだ」と励まします。
養父も若いころ日本人に助けられた経験がありました。
新中国誕生の年、十三歳の川添さんは試験を受け、国語・算数とも百点で夜間学校に入学。
その後養父の仕事で故郷に帰り山東省立師範学校に入学。
卒業後、小学校・中学校・高校の教師を務めます。
四十七歳で帰国、協会
と出会い帰国者支援運
動に全力
「『戦死者』として戸籍が抹消されパスポートが取れない上、身元保証人の問題もあり、なかなか帰国できませんでした。 帰国してからは日本語ができず壁にぶつかりました。 必死で日本語を覚え、家族や生活のことで支援してくれたのが日中友好協会です」と語る川添さん。
帰国者の会事務局長として活動する姿には、「二つの祖国の平和友好」を願う信念が満ち溢れています。
2015年 9月 1日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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県連は6月11日、福岡県知事に中国帰国者2世への支援について「人間の尊厳が確保できる施策を」「新・支援法が帰国者2世にも適用できるよう国に申し入れること」など10点について文書で「申し入れ書」を手渡し交渉していました。
7月1日には県議会の5会派に協力要請をおこないました。
帰国者1世、2世とともに、後藤富和弁護士、県連の松山副会長、星野事務局長が同行しました。
丁度、議会中で多忙なときでしたが、原中誠志福岡県議(民主)、山口律子県議(共産)からは時間を割いて話を聞いてもらえました。
原中誠志県議「 帰国者ご本人、2世、3世の皆さんの支援に取り組んでいきます。 県独自の取り組みを行ってきましたが、国の対策に準じる部分が多く、皆様方の期待に応える施策が十分にできていたとは考えていません。皆さんの生活支援にしっかりと取り組んでいきます。」
山口律子県議「みなさんは幼いころつらい体験をされたことでしょう。今また戦争へ向かおうとしています。同じ過ちを繰り返してはなりません。皆さんの申し入れの解決に全力を挙げて頑張ります」
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2015年 7月 23日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国語教師で生涯現役
「一声はもっと高く、中国人には通じませんよ」張りのある声が教室に響きます。 半世紀以上も友好運動に携わり、その大半は中国語教師の吉武健児さん。 高低をはっきり発声する指導は定評、現役の教師です。
文化大革命の困難な時期に県連の事務局長を務め六十年の歴史を支えてこられました。 八十歳とは思えないその立ち居振舞いに、信念に裏付けられた生き方が表れています。 |
遺骨を抱いて父が帰国
中国語で方言も聞く
一九三五(昭和十)年一月、宗像大社の近くで出生。
山西省へ輜重(運輸)部隊で出征していた父親が終戦前、戦友の遺骨を抱いて帰国。
当時五~六歳だった吉武さんは毎日、中国の話や中国語の方言などを聞いて育ちました。
その影響もあったのでしょうか、「貿易関係の仕事がしたい」と北九州大学の中国科に進みます。
北九州大学で中国科を専攻
故深谷さんと運命の出会い
その頃、大学に出入りしていた故深谷節子さんから中国語の歌などを教えてもらいます。
深谷さんは中国で終戦を迎え、解放軍の文工隊として各地を転戦、帰国後は日中友好運動を推進した大先輩。
二十四歳だった吉武さんはこの出会いをきっかけに協会小倉支部に入会。
国交回復前、全国で取り組まれた「京劇公演」の北九州開催に青春の情熱を燃やします。
運動の傍ら中国語教師
大学では人気投票第一位
卒業後は万年筆会社の営業マンに。
毎週水曜日、仕事が一段落した夕方から福岡市天神の天満宮一角にあった協会事務所で中国語教室の講師を努め、終了後会社へ戻るという生活。
その後、仲間の紹介で九大生協の食堂で働きます。
当時福岡支部には三百人の青年部員がいて活動も活発、「恋の花」が幾つも咲き、吉武さんは初代書記長になりました。
一九六六年、三十歳で協会の専従職員に、文革の影響で会員が四分の一に激減するなど困難もありましたが、事務局長として五十歳までの二十年間、友好運動を最前線で支えます。
旧友の紹介で五十一歳から西南大で中国語の非常勤講師に、その後福大・中村大・九州国際大・九州共立大などで講師を務め受講生は約一万人。
西南大学園祭の「講師の人気投票」ではナンバーワンになりました。
国民的な友好が基礎
切り開いてきた道一筋に
事務局長時代は帰国者の方から昼夜を問わず住居や仕事、家族の相談が寄せられ寸暇を惜しんで対応、「協会は心の拠り所」と語ります。
「国民的な友好が基礎」と自らの体験から得た信念に揺らぎはありません。
その不動の姿勢は吉武さんを知る人々に友好運動への希望と確信を与え続けています。
2015年 7月 5日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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ダイジェスト動画
みずからも満州で過酷な体験をしながら、生涯を残留孤児たちの肉親さがしに捧げ、献身的な愛で支えた山本慈昭。 その生涯をたどった物語。
2015年 7月 2日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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宗広有蔵さん・88歳 宗広マツさん・81歳(糸島支部)

「よく生きて帰れた、絶望もあったが人生の基礎ができた」と語る宗広さんご夫婦。希望を持って渡った旧満州で敗戦を迎え、何度も死線をさまよいましたが、中国の大地と人々に助けられ人生の指針を得て帰国。以来、半世紀もの間日中友好運動を支えて来られました。シリーズ一回目は、絶望の淵から這い上がり友好運動に熱意を込める宗広さん夫婦の人生と人柄を紹介します。
南満州鉄道に就職
翌年現地召集 有蔵さん(十七歳)
有蔵さんは八幡製鉄所と南満州鉄道に合格。終戦一年前の一九四四年一月、「給料が高かった」南満鉄に入社。翌年八月一日、現地招集でチチハルの技術部隊に配属。訓練期間中の九日「ソ連軍参戦」で敗戦。捕虜となり、ソ連国境の黒河の収容所に入れられます。
一九四六年、五百キロ離れた北安に徒歩で移動。七百人いた部隊は死亡者が続出、到着したのは三百人程でした。有蔵さんも発疹チフスにかかり、病人収容所に入れられます。薬も手当てする人もなく、七百人程いた病人の中で、生き残ったのは有蔵さん含め七人。「生きる運だけが頼りだった」と当時の悲惨な状況を語ります。
生き地獄と化した開拓団
十一歳の逃避行 マツさん
五歳で家族と満州に渡ったマツさん。敗戦の日、逃げる時家族とはぐれますが隣村の開拓団で母と姉妹に再会。安心したのもつかの間、地獄の逃避行が始まります。
頼りになる「兵隊さん」は鬼の軍隊、「絶対服従」は開拓団員にも強制されました。「泣く子は殺せ」の命令が下り四歳の妹も犠牲に、たどり着いた収容所は栄養失調・伝染病で死体の山でした。
母もなくなり中国人の家に引き取られます。二年後、十三歳の時解放軍の看護婦になった姉が探しに来てくれ、解放軍の保母として働くことになります。
鶴岡炭鉱で社会主義を学習
待ち望んだ帰国列車が内戦の混乱で進めず鶴岡炭鉱に運ばれた有蔵さん達。帰国の望みを絶たれた中で五年間機械設計の仕事をします。そこで社会主義を学ぶ仲間と出会います。一週間に一度の学習会では社会の仕組みや人民が主人公であることを学び、「目からうろこが落ちる」日々でした。
一九四九年十月一日、中華人民共和国が建国。人民の国ができ、そのために働けることに感動しました。二千人いた同僚から有蔵さん含め数十人が選抜され、北京の人民大学で学ぶことになります。奥さんのマツさんは人民大学の保母さんでした。知り合った二人は仲間に祝福され結婚します。
帰国後、友好運動に全力
糸島支部を創立
一九五八年に帰国した宗広さん夫婦。早速、友好運動に参加、中国との国交正常化直後の一九九九年9月、糸島協議会(その後支部)を創立します。
「中国への信頼はゆるぎない。『日中友好』の一点で楽しく、おおらかに、しなやかな運動が大事」と語る二人です。
2015年 5月 31日 糸島支部 中国残留邦人帰国者 交流 人生に友好の歴史あり | Permalink
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「戦後70年」手記①
中国の大地に1人
生き残った私
原田育子 八幡支部
私は1933年6月19日山口県下関市で生まれました。
ちょうど70年前の1945年の春に、家族で満州の吉林省黒頂山開拓山にいきました。
父は兵隊にとられ、兄は海軍学校で日本に残り、母と私たち兄妹五人になり母は開拓団のみなさんと一生懸命に畑仕事をしていました。
私はそこに着いて学校もない家の中で兄妹たちのお守りをしていました。
突然、帰国命令
その年の8月8日でした。突然、開拓団の団長から日本に帰る命令を受け、母が私たちを抱いて泣きました。
母から「すぐ日本に帰る」と言われ、その日の夜中12時に出発しました。
9日の朝、鎮西という小さな駅に着きました。
ひと晩待っても汽車は来ませんでした。
団長が「ここは小さな駅だから何日待ってもだめでしょう。わたしたち兆南という大きな町に行きます」と言われ、また歩きだしました。
しかし、私たちは、2日間何にも食べてないので歩く力がありません。
しょうがないから黙って畑の中に入ってトウモロコシをとって生で食べたり、雨ばかり降っていましたので、のどが渇いたら雨水を飲んだり、疲れたら畑の中で休んだり、やっとあと30キロで兆南に着くところでした。
首を切られて気を失う
8月13日の朝でした。
団長が「もうすぐ町に着くからみんなちょっと休もう」と言ったとき、鉄砲の音がしました。
うしろを見たらロシア軍が来たのです。
私たちみんなあわてて畑の中に隠れました。
でも老人たちは走ることができずロシア軍に殺されました。
私たちは、畑の中で30分くらいたちました。
外は静かになりました。
ちょっとのぞいてみたら、ロシア軍は私たちを追ってこないで町の方へ行きました。
それで私たちはまた一緒に集まりました。
団長が「私たちはもう日本に帰ることできないでしょう、まわりはみんな私たちの敵です。」と言われました。
母は私たちをしっかり抱きしめて大きな声で泣きました。
ほかの団体のお母さんたちも自分の子どもたちを抱きしめてみんな泣いていました。
そのとき鉄砲の音がしました。
みんな頭をあげてみたら、1人の少年兵が鉄砲でみんなをつぎつぎと撃っていました。
しかし私たちの番になったとき鉄砲の弾がなくなり、団長が刀を抜いてきたのです。
母と弟妹は私の目の前で切られ、母はすぐに亡くなりました。
私は1番最後で首を切られて気を失いました。
それから何時間たったかわかりませんが目がさめてまわりを見たらまだ2歳になっていない幼い弟が、母が死んでいるのもしらないで母の胸の上でおちちを飲んでいました。
6歳の妹は母の近くで泣いていました。私はまた気を失いました。
2度目に目がさめてまわりを見たら弟は母の胸の上で死んでいました。
母のまわりにも2人の弟と妹は死んでいました。
6歳の妹はもういませんでした。
私は喉が渇きました。
でも動くことができません。
中国人の家に
ちょうどそのとき、私の目の前に中国の人が2人立っていました。
私が頭をあげて「水」と言いました。
1人の人が、はっぱに雨水を入れてもってきて私に飲ませてくれました。
2人は兄弟でした。
それから2人が板を借りてきて、私をかかえて家まで着きました。
家の中は大家族でみんなやさしい人たちでした。
薬もないのでお酒と塩で私の傷を洗ったり、みんなが手伝って治してもらいました。
2度と戦争がないように
戦争は本当に恐ろしいです。
私はあのときに受けた強いショック、混乱の中の子どもたちの泣き声が今でも耳の中で響きます。
みなさん、2度と戦争が起こらないようにいつまでも平和を祈りましょう。
2015年 5月 29日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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人間の尊厳を
守って欲しい!!
帰国者2世、弁護士、協会県連が対策
中国帰国者2世の会、弁護士、協会福岡県連の3者による「中国残留邦人帰国者2世の問題」の話し合いが1月13日、県連事務所で開かれました。
この日は、2世の会木村友和会長をはじめ4人、帰国者の会の木村琴江会長、川添緋砂子事務局長、協会福岡支部長の後藤富和弁護士、中原昌孝弁護士ら4人の弁護士、帰国者1世を長年支援してきた名和田澄子さん、協定県連の松山盛利副会長ら4人が参加しました。
帰国者2世から現状がこもごも語られました。
「私は20年前、47歳の時に帰国した。17年働き、わずかだが年金をもらっている。生活できなくて5年前から生活保護を受けている。4年前に中国の養父母に会いに行った。飛行機代は年金をためて購入したのに生活保護費から削られた。その間、生活がとても厳しかった。生活保護では海外旅行は認めていないと言われた」
「中国の養父母のお見舞いに行くとか墓参する場合に、中国は広いから、生活保護での渡航期間を2週間しか認めないのは現実的でない。せめて支援法で認められているように2カ月は欲しい」
「病院に行って通訳がいないのは大変困った。先生に病状が分かってもらえたのか不安だし、先生の言っていることが理解できないことが多い。通訳をお願いするのは予約しないとだめで日にちがかかり、間に合わない」
「生活保護受給の際にとても耐えられない言葉を投げかけられた」
「日本語が話せないために仕事でも差別を受け厳しい労働にしか就けず、体を壊している人が多い」
帰国者2世の方は全国で2万4000人以上いるそうですが、国も市も現状を把握していません。
この日の話し合いでは、生活保護に頼らざるを得ず老後の生活の不安も抱えている現状を何とか改善したいと、国や県、市などにも2世の要求を提出しようと「申し入れ書」をまとめることになりました。
弁護士さんの支援もあり、2世の問題の解決にはこの福岡から全国へ発信していこうと参加者一同決意を新たにしました。
2015年 2月 10日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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協会福岡県連は10月19日、福岡市で第53回定期大会を開催しました。
出席した最年少の19歳の代議員を含め63人の代議員と6人の評議員は、「汗と涙と宝の結晶」が詰まった福岡県連結成60周年のあゆみを学び、日中友好協会の“今こそ出番”の情勢にふさわしく、1400人の峰をめざす方針を決めました。
大会後の「福岡県連結成60周年・県連版500号記念祝賀会」には会員や来賓など100人の盛大な式典となりました。
小西浩子さんの司会で中村博則氏(劉福君教室門下生)の二胡演奏で開幕。
「県連60年のあゆみ」をスライドを観ながら日中友好の歴史を振り返りました。
田中義教理事長の祝辞、駐福岡総領事館李天然総領事のメッセージ(張馳領事代読)のあと、九経連植松嵒常務理事の乾杯の音頭で交流が始まりました。
大塚勝利県議(公明党)の紹介のあと篠田清氏(日本共産党福岡県委員会副委員長)が挨拶しました。
本部指導員による太極拳の表演、西川義男氏のハーモニカの演奏、帰国者の「やんこ踊り」や九州産業大学の「中国武術」の演武は華を添え、「美しい心は世界をつなぐ」と桧和田衛青年部長、能美友吏子さんの伴奏で「東京―北京」を全員合唱して幕を閉じました。
2014年 11月 27日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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6月7日、福岡市内のホテルにおいて、中国の唐家璇中日友好協会会長を迎えて、中国福岡総領事館と「福岡県日中友好協会」の主催で日中友好の集会が開かれました。
当日は、九州中国帰国者の会の代表も招待されました。
川添緋砂子事務局長(日中友好協会福岡支部理事)は、唐家璇会長と懇談し、次のように語りかけました。
「唐先生、こんばんは、私は戦争の犠牲で中国残留孤児になりました。中国は残留孤児に対して命の恩人です。その恩は、一生忘れません。残留孤児の希望は日中両国永遠友好、永不再戦です。残留孤児の体の中に流れている血は、日中両国の人の血です。みんな日本と中国友好が一番大事と思っています。」
微笑みをたたえながら聞いていた唐家璇会長は、「あなたたちの希望は、私と同じです。一緒に頑張りましょう」と帰国者の皆さんを激励しました。
2014年 7月 26日 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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協会福岡県連、支援を力強く約束
2月23日、福岡市で「九州地区中国帰国者の会」第12回総会が開かれました。
午前中は水餃子づくりと食事で交流を深め、午後は会議を開催しました。
大分県や熊本県などからも幅広い参加があり、参加者80余名のうち帰国者2世がその約半数を占めて若返ったことも特徴の一つです。
木村琴江会長のあいさつの後、椛島敏雅弁護士が昨年国会で成立した「中国帰国者配偶者支援法」の内容について説明を行いました。
この法律によって帰国者が亡くなつた後も配偶者に新支援法が適用されることになりました。
椛島弁護士は「この成果は先の国家賠償請求訴訟が終了しても原告団を解かずに戦い続けた成果」だと評価しました。
続いて中原昌孝弁護士が九州弁護士会連合会人権擁護委員会が行った「中国帰国者2世の生活実態調査」の中間報告をしました。
2世も高齢化し十分な老齢年金を受給できずに生活保護受給者が少なくないこと、その場合生活に様々な制限が加えられることなど、一世の人達が訴訟を起こす前に遭遇した問題と同じ深刻な状況があることが報告されました。
その報告後 木村友和会長を含む7名の役員を投票で選出し、参加者の信任を得て「帰国者2世の会」が結成されました。
また、午前中、支援者からなる九州地区中国帰国者を支援する会の役員会が開かれ今後の支援の在り方が検討されました。
帰国者の総会に出席した協会福岡県連の松山盛利副会長は「協会福岡県連は今年で創立60周年を迎えます。この歴史と組織力を活かし今後とも帰国者支援のためにみなさんと共に活動していきます」と力強く語りました。 (な)
2014年 3月 9日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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13氏が連名で発表 記者会見
福岡県連は2月10日、県庁記者室において記者会見を行い石村善治福大名誉教授、馬奈木昭雄弁護士、木村琴江帰国者の会会長の同席のもと、県内の著名な13氏が呼びかけた「尖閣問題の話合いによる解決を求める県民へのアピール」を発表しました。
この署名は「一衣帯水」の福岡の地にとっては、もっとも切実な問題です。福岡県内では7市町村が中国各都市との姉妹都市が結ばれ民間交流が行われています。全国では338ヶ所に広がっています。
一番ヶ瀬宗幸県連会長は「尖閣問題は複雑な問題ですが、県民へのアピールをテコに話合いによる解決を求める世論を広げていきたい。」と情熱をこめて語りました。
石村善治福岡大学名誉教授は、「この博多港から出兵していった歴史を思い起こします。銃を取って侵略していった加害の歴史を忘れることができません。昨今の動きは再び戦争への道へ進んでいるように感じる」とアピールの重要性を強調しました。
馬奈木昭雄弁護士は「憲法前文にあるように、政府の行為で戦争が起こされる。それを止めるのは国民です。日中両国民が理解し合えれば戦争を止めることができる。今、わたしたち国民が声をあげていきたい。」と述べました。
木村琴江帰国者の会会長は「中国も日本も私たちの祖国です。戦争は私たち国民を苦しめます。両国民は仲良くしてほしい」と体験を語りました。
松尾武蔵理事長は「全国では賛同者が7590人となりました。県内の自治体で田川市、大宰府市、筑紫野市、大野城市の各市長が賛同していただいています。さらに県民の中に3600人の賛同者に広げていく方針です」と決意を語りました。
福岡県内13氏の紹介
安東毅(九州大学名誉教授) 石村善治(福岡大学名誉教授) 稲村晴夫(弁護士) 一番ヶ瀬宗幸(日中友好協会福岡県連合会会長) 小沢和秋(元衆議院議員) 木村琴江(九州地区帰国者の会会長) 新谷肇一(有明高専名誉教授) 武田正勝(医師) 蔦川正義(佐賀大学名誉教授) 馬奈木昭雄(弁護士) 三輪俊和(健和看護学院学院長) 村上陽三(九州大学名誉教授) 山田真一郎(医師)
2014年 3月 9日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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福岡市東部地域のつどい
「中国帰国者の体験を聞く会」
福岡市東部地域では、昨年から色々な行事に取り組み、今年は、新年交流会「ギョウザつくり」を楽しみました。
安倍政権は「憲法改正や慰安婦問題」で、歴史に目をつぶり、逆行させようとしています。
「日中」は、不再戦・友好を通じ、アジアと世界の平和を願う組織です。
中国で幼い時に終戦を迎え「残留孤児」となったお二人に、ご自身の体験を話して頂きます。
日時 : 2013年6月29日(土)14時から
会場 : 香椎公民館(西鉄香椎駅(貝塚線)まえ)
①「戦後の思い出」
木村琴江
(九州地区中国帰国者の会 会長)
②「戦争体験・中国での暮らし」
川添緋砂子
(九州地区中国帰国者の会 事務局長)
2013年 6月 2日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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福岡県弁護士会「新役員祝賀会」が5月22日、ホテル・ニューオータニで行われました。
招待を受けた福岡県連は、岩佐英樹、松山盛利両副会長、松尾武蔵理事長、星野信事務局長が出席し、中国人強制連行事件や帰国者支援で尽力いただいている弁護士のみなさんと交流を深めました。
千人を超える弁護士会の「祝賀会」とあって、盛大な中にも、不祥事を根絶する決意のこもった凛としたものが感じられました。
橋本千尋県弁護士会会長は「弁護士法第一条に示されている『 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。』原点にたちかえり、国民の立場に立って人権を守る、戦後復興のさなかに誕生した弁護士法は、あの間違いを繰り返さない社会の実現です。今後信頼回復に努力します。」と挨拶しました
2013年 6月 1日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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5月6日、福岡市で、「九州地区中国帰国者の会 第10回総会」が開かれ75人の参加で、「新・新支援法」実現へ向けて熱気あふれる会議となりました。
「帰国者の会」の川添事務局長が司会を務め、木村会長が「『新支援法』から4年がたって生活は安定してきたが、配偶者や2世・3世に支援法が適用されない問題を解決するために帰国者の会を発展させましょう。新支援法改正に賛同する帰国者、2世・3世の署名は422人に達しています。老人ホームの夢も実現しましょう」と呼びかけました。
椛島弁護士は「配偶者に絞った要求で政府と交渉します。7月9日の厚生労働大臣との面談を前に世論を広げるために一緒にがんばりましょう」と激励されました。
星野県連事務局長は、日中友好協会として全国的に「中国残留孤児の配偶者の生活支援を求める請願署名」を団体に広げ、街頭で支援を訴えていく決意を述べ、協会への入会を呼びかけました。
川添帰国者の会事務局長は「協会は再び戦争しないために運動している。私たち帰国者は戦争の犠牲者です。再び犠牲とならないために協会の輪を広げましょう」と訴えました。
原中県会議員は「福岡県議会で新支援法改正を求める要請決議ができるよう頑張ります」と連帯のあいさつ。大きな拍手がありました。
井下弁護士から、九州弁護団が人権擁護委員会で2世・3世の聞き取り調査を行っており、新支援法の問題点を浮き彫りにしていく」とりくみが報告されました。
帰国者は生活実態を出し合い、議論百出の後、問題点の解決をめざして結束を強めようと誓い合いました。
総会に先立って帰国者のみなさんが手作りした餃子を支援する会のみなさんと共に食べながら交流を深めることができました。
2012年 6月 5日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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5月6日、福岡市で、「九州地区中国帰国者を支援する会」総会が2年ぶりに行われました。
名和田会長から「新支援法制定以降の帰国者の生活実態と今後の支援のあり方をめぐって」リアルな報告がありました。
昨年、NHKで放送された柴田ご夫妻の「二人の旅路」の反響もあり、帰国者への関心が広がっていることも紹介。
新支援法が配偶者や2世・3世へ適用されないので、高齢化で「帰国者」が逝去された場合、残された配偶者の生活は困難であることが浮き彫りになりました。
配偶者への適用を求める「新支援法」改正へ向けた運動を支援していこうと確認しました。
2012年 6月 5日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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にいはお戸畑 第36号
(日中友好協会戸畑支部ニュース)
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・餃子つくり会
- 戸畑支部は、3月25日(日)「餃子会」をしました。九州工業大学の中国人留学生4人や帰国者と家族6人を含めて・・・
・「西安」に行こう
- 鐘楼は街の中心にあり、かつては鐘で人々に時を知らせていました。明代1384年建造。現在はロータリーの中心・・・
・中国人現地調査in宇美
- 強制連行 強制労働
- 第4回目となる福岡県内の中国人強制連行・強制労働現地調査は、4月15日(日)に、宇美町の三菱鉱業・勝田大谷坑跡地・・・
・福岡中国総領事館訪問
- 4月10日、八幡支部が福岡の中国総領事館を訪問するというので、同行させてもらいました。当日は、郭主席領事はじめ・・・
・中国の街で見られる中国語
- 今月はちょっと長い文ですが無錫・太湖の映画セットの観光地にある、バスの駐車場から船着場・・・
2012年 4月 28日 イベント・講演戸畑支部 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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4月15日、第4回目を迎えた探訪は、糟屋郡宇美町にある大谷坑跡地と博多港をめぐり、45人が参加しました。中国人を強制連行し、強制労働させた県内16事業所跡地を2年がかりで探訪しました。大谷坑跡地は想像できないほど開発され、住宅地となっていました。頑丈な「巻き上げ機」や「トロッコの橋脚」「坑道の壁と想像できるような分厚い煉瓦が土の中から露出している山の斜面」など昔に思いを馳せながら探訪して回りました。
博多港跡地は埋め立てられ、現在は、大相撲などが開催される国際センターとサンパレスが建てられています。また、博多港は、戦後の引揚者が全国一多い港で、「那の津往還の碑」建立にかかわった堀田広治さんに案内していただきました。
参加者を前に岩佐英樹県連副会長は、強制連行の実態について話しました。 宇美町の鳴海圭矢町議は、「町民の方は、過去の歴史を知る人は少ない。こういう調査で知り得た情報を多くの人に発信していきたい」と歓迎のあいさつをされました。
今後は、地元に慰霊碑建立の運動や4回の探訪をまとめた「報告集」をつくる準備に入ります。 協会大牟田支部は大牟田市と荒尾市に、宮尾鉱と万田鉱に慰霊碑を建立する「申し入れ書」を提出しています。
2012年 4月 18日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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戸畑支部
戸畑支部は、3月25日「餃子会」をしました。九州工業大学の中国人留学生、帰国者を含めて35人の参加者で大にぎわいでした。
餃子は、糸島支部の宗廣マツさんからいただいたレシピに沿ってつくりました。
厨房に全員は入りきれないので、その間、他の参加者は「月亮代表我的心」を中国語で練習しながら歌いました。中国語教室の張昭瑛先生が5歳の娘さんを連れて参加して下さり歌の指導をしてくれました。
餃子を食べながら、自己紹介をしました。留学生は「中国と仲良くしようという人達と出会えてうれしい」と言っていました。留学生の苗壮さんは、修士課程を卒業して就職するので、お別れに戸畑支部からプレゼントを贈りました。
中国語教室で勉強している人は中国語が上手にならないといいながら中国とは仲良くしなければならないと思うと話をされました。
参加者の中に古い日中友好協会の会員が4人います。4人とも終戦の1945年には16歳でした。その後、中国の八路軍に13年間参加し新中国建国に協力して1958年に帰国された方々です。内村敏男さん、内村敏子さん、西村義一さん、五郡典夫さんから長い経験を語っていただきました。
若い参加者はすぐに仲良くなって、中国人留学生と携帯電話の番号を教えあったりしていました。
最後に、日中友好協会の会員・準会員をもっと増やして120人の会員にしようと話し合って終わりました。(に)
2012年 4月 18日 戸畑支部 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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東日本大震災福島原発事故から1年目の3月11日、震災でなくなった多くの人々を弔う慰霊祭や「さよなら 原発」の集会が全国各地で開かれました。
福岡県内の北九州、福岡、大牟田、久留米、直鞍、嘉飯、田川の地では、「命の大事さ」「復興」を願う団体・個人が参加する実行委員会主催の「原発NO」の集会がとりくまれ、参加者は9000人を超えました。
協会県連合会の各支部も会員に参加をよびかけ、支部旗などを掲げて、積極的に参加しました。 昨年の被災直後、「祖国に恩返しをしたいと」いち早く募金活動にとりくんだ中国帰国者のみなさんも、木村琴江会長(協会福岡支部理事)を先頭に「さよなら原発」の横断幕を持って参加しました。福岡では集会後、九電本社までパレードをし、“人間の鎖”で本社ビルを取り囲みました。
2012年 4月 1日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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八幡支部は、1月21日、留学生、帰国者を招待し全員で42名が参加し盛大に行うことが出来ました。
留学生から自己紹介と日本の感想などが語られ、ギターの演奏やカラオケを楽しみ、炭坑節を全員で踊り交流を深めました。帰国者の作るギョウザが大変好評でした。
2012年 2月 22日 中国残留邦人帰国者八幡支部 | Permalink
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漫画展
「中国からの引き揚げ
~少年達の記憶」
■出品
赤塚不二夫 上田トシコ
北見けんいち 高井研一郎
ちばてつや 林静一
バロン吉元 古谷三敏
森田拳次 山内ジョージ
山口太一 横山孝雄
■とき 3月27日(火)~4月1日(日)
■ところ 糸島市 伊都郷土美術館
(伊都文化会館横)
詳しくはこちら
2012年 1月 22日 糸島支部 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「国際交流市民どんたく」に参加
福岡支部
11月5・6日福岡市アクロスで開かれた「国際交流地球市民どんたく」は、「世界と日本を愛でつむぐ」をテーマに23団体が参加し、1千名を超える市民が会場を訪れました。
協会福岡支部は3回目の参加です。
日中の展示ブースは、東日本大震災に中国から支援として贈られた福島原発に注水する大型ポンプ車の写真、中国残留帰国者の福岡市天神での震災支援街頭募金風景写真、日中文化センターのサークルの活動紹介をしました。日中友好協会のスタンプラリーには、二日間で320人以上の人が応募しました。
5日のワークショップでは、二胡演奏、静吟、中国語教室、太極拳とサークルの日頃の活動を会場に訪れた人にお披露目しました。(お)
2011年 12月 11日 福岡支部 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 二胡 交流 太極拳 | Permalink
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文化大革命の影響で日中友好協会と中国との交流が断絶していた30年前、「文化を通して、両国民の相互理解を深めよう」と創立された福岡日中文化センターは、11月20日の「記念のつどい」を中心に、来年3月に向けて、多彩な記念行事を開いています。
早良市民センターでの「記念のつどい」は、300人、「映画と講演会」260名、「ウオーキング」43名、「きりえ作品展」9百50名、「鑑真学習会」20名、「孫文学習会30名の他、協賛行事の「海南島の旅」15名、「国際交流どんたく」450名、「引き揚げ・漫画展」470名など、市民の参加者総数は2千6百名に及んでいます。
これから、「鑑真和上上陸地・坊津と南薩摩の旅」「囲碁大会」「お宝・バザー展」「フイナーレ交流会」の他、協賛行事の「前進座80周年記念公演」を成功させるために取り組んでいます。
11月20日の「記念のつどい」は、第1部の講座・サークルの発表会に、延べ130人以上が出演し、会場が盛り上がる中、第2部が始まり、劉福君さんの二胡と、周暁丹さんの揚琴の見事なアンサンブルが、会場をいっそう沸かせました。
村上陽三実行委員長の開会挨拶のあと日中文化センターの30年間の歴史を、國嶋かおりさんの語りで、スライドをスクリーン一杯に映しだしました。
第1部は、大井しづ子さんと南京からの留学生宋小偉さんの"親子コンビ"の、司会で進行。 [二胡教室]の皆さんに[飛天楽坊]の仲間も加わって、二胡発表。黒田節"の調子も出てくる静吟会の構成吟[今様咸宜園]。 日ごろの5つの教室に分かれて練習に励んでいる[日中太極拳教室]のみなさんが、この日は、[簡化二十四式][八十八式][三十二式太極剣]に、3つの班に分かれて表演。[日中うたう会]は榊康子さんの指揮・美山恵子さんのピアノに合わせて、[はぐれ燕]など3曲を合唱しました。
つづいて、「中国帰国者の会]が、日本語で[星影のワルツ]と、[大海啊故郷]を中国語で歌い、司会の宋さんの「日本語を習う難しさがよく分かります」の言葉に、会場に共感が広がっていました。
中国語講座受講者による中国語劇[愚公移山]は、初舞台以来5年ぶりの再演でした。舞台袖の"日本語字幕"の助けも相まって、会場の反応も上々でした。
発表会のトリは、[日中友好協会]の中国秧歌(やんこ)踊りで、帰国者を中心に、収穫の喜びあふれる秧歌踊りは、会場を盛り上げ、飛び入りの人が次々に舞台に上がって踊りの輪に加わりました。
第2部は、檜和田葉子さんの明るい司会で進行しました。劉福君さんと周暁丹さんが演奏する「中国悠久の調べ」は、二胡と楊琴による中国の伝統楽器の演奏を十分に楽しませてくれました。 最後の「万馬奔騰」は、馬の群れが怒涛のように疾走する雄大さと迫力を感じさせる演奏で、会場の拍手はいつまでも鳴りやみませんでした。
会場で震災被害者の訴え
幕間に、東日本大震災・原発被害から福岡へ避難している被災者を代表して宇野朗子さんが、「福島では目に見えない放射能に、赤ちゃんや子ども・妊婦が蝕まれている。これからも被災地に力を貸してください」と訴えました。早速これに応えて、40212円の救援募金が寄せられました。
会場のロビーでは、故鮫島国三初代センター所長の書と「日中書道の会」の作品が展示されました。(三)
2011年 12月 9日 福岡日中文化センター イベント・講演 中国残留邦人帰国者 二胡 太極拳 | Permalink
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日本は私たちの祖国
帰国者のひとびと
「友好協会」「支援する会」の会員とともに
震災支援街頭募金 市民から12万2495円

「中国も日本も私たちの祖国」「四川大地震と帰国者新支援法成立のためにお世話になった国民にお返ししたい」と帰国者の人々は、福岡支部、筑紫支部、玄界灘支部の会員と力を合わせて、3月27日、福岡市の中心街・天神でマイクを交代で握り、市民に募金のお願いをしました。
道行く市民は、たすきをかけ、大きな横断幕を掲げて、家族ぐるみで募金活動する私たちの姿を見て、立ちとまり、募金に応じていました。
当日は、1時間半で12万2495円がよせられました。
2011年 4月 2日 中国残留邦人帰国者 支援募金 | Permalink
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日時 9月23日(祭日) 14時~
会場 あいれふ 大研修室
福岡市健康づくりセンター等複合施設
福岡市中央区舞鶴2-5-1
報告 |
研究者の立場から 名和田澄子 社会福祉士 福祉現場から見た現状 木村智恵子 福岡県高齢者福祉生協 他 中国帰国者の報告 川添緋砂子 他
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司会 深谷節子 日中友好協会小倉支部役員
参加費 無料
主催 中国帰国者を支援する福岡の会
電話 092-761-0604
・ 中国帰国者の会
協賛 日中友好協会福岡県連合会
2010年 8月 29日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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6月21日、福岡市で「福岡地区中国帰国者の会」(木村琴江会長)と「福岡地区中国帰国者を支援する会」(名和田澄子代表)の合同役員会が15名の参加のもとに開かれました。
当日は、5月31日の厚生労働省への要請行動に参加した川添緋砂子さんの報告と椛島敏雅弁護士から補足説明を受けました。
新しい支援策が実施されて2年あまりが過ぎ、帰国者の生活は以前と比べて安定し、笑顔も出てくるようになりました。
しかし、「残留邦人」に対して国の公式の謝罪はされておらず、このことから、政策や人間としての尊厳回復の不十分さとなって問題がいろいろと出てきています。
このため、「孤児の配偶者に対する支援を厚くしてほしい」「2世、3世に対する支援を拡充してほしい」など9項目に亘って要望したものです。
福岡でも、配偶者が給付金を受けられない人や「日本語が不自由でも気楽に過ごせる高齢者施設がほしい」などの問題や要望が多く出てきています。
支援する会や日中友好協会福岡県連合会では、帰国者の会ととともに厚生労働省への要望書を県、北九州、福岡両市に対しても提出し、要望実現に向けて要請を行うことにしました。
2010年 7月 10日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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■出品 (順不同、敬称略)
赤塚不二夫 上田トシコ 北見けんいち 高井研一郎
ちばてつや 林静一 バロン吉元 古谷三敏
森田拳次 山内ジョージ 山口太一 横山孝雄
■会場 八幡西区・黒崎カムズ名店街
日時 8月13(金)~15日(日) (10時~19時・15日は17時閉館)
主催 日中友好協会福岡県連合会・八幡支部
■会場 岡垣町サンリーアイ 一階展示場
日時 8月16日(月)~17日(火) (9時~19時)
主催 日中友好協会福岡県連合会・実行委員会
■入場料 開催協力費として 大人300円、中高生200円、子ども無料
■出品協力 私の八月十五日の会
■後 援 中華人民共和国駐日本国大使館
日本中国文化交流協会、財団法人日中友好会館
日本漫画家協会、NPO法人中国帰国者の会
東横イン、株式会社アルファ・デザイン
日本の漫画家が訴える、戦争のおろかさと、命、生きることの喜びと重み
2010年 6月 16日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者八幡支部 | Permalink
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帰国者、弁護団、支援者など130名参加
帰国者の会、謝恩の会開く
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4月29日、福岡市内のアイレフで中国九州地区帰国者の会の皆さんが、これまでお世話になったお返しにと、弁護団、支援する会、友好協会関係(福岡県連、大分、長崎、熊本の各支部)、新支援策を作った時の与党PTの座長 野田毅 衆議院議員などに対して、謝恩の会を開催しました。
参加者は総数百三十名名余。 当日は、帰国者だけでなく、その家族の人たちも参加し、朝9時過ぎから、男の孤児の皆さんも一緒になって、野菜をきざむところから、すべて手作りで、エビチリ、八宝菜、肉料理などの高級料理、水餃子やチャーハン等を、12時ころまでかかって作ってくれました。 とても美味しく、お腹、いっぱいいたただきました。
弁護団、武田正勝 協会県連会長、野田毅 衆議院議員、支援者の一人ひとりに、木村琴江 団長より、額に入った個人宛の感謝状が贈呈されました。
孤児の皆さんへの支援は、2世3世の方も含めて、課題はあります。 既に協会や支援する会には相談が寄せられており、早速、活動を進めています。
2010年 5月 23日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国帰国者を支援する会総会開く
第6回九州地区中国帰国者を支援する会総会が、4月16日、福岡市で、長崎、北九州、福岡から18名が参加して開かれました。
来賓として、椛島敏雅弁護士が出席し、新支援法成立後もいろいろな課題を抱えており、今後の活動の大切さについて話されました。
前総会後、2年半、帰国者との交流、支援、行政への要請などの活動がなされたが、会としてのまとまった活動が弱かったことが反省として事務局より出されました。
今後は、2世、3世も含めて帰国者は老後の生活、医療などの問題解決の援助のために、会として、もっ活動を強めていくことを確認しました。
2010年 5月 23日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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県弁護士会、市丸会長ら三役が就任挨拶で来所

このほど新たに福岡県弁護士会の役員に就任された市丸信敏会長、岡崎信介副会長、小林洋二副会長、井上正義事務局長の4名の弁護士の方が、3月24日、県連事務局を訪問されました。県連からは武田正勝会長、松山盛利事務局長、大井信明次長、星野信常任理事の4氏が応接しました。

県弁護士会は「不安を安心に」をキャツチフレーズに「どんな相談」にも県内各地の「法律相談センター」で応じています。
県連とは中国人戦争被害者や残留日本人孤児支援、大連律師協会との交流提携祝賀会の出席や日中友好協会法律相談会をとおして弁護士のみなさんとの交流が深まっていきました。
2010年 3月 27日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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福岡と大連弁護士会が提携交流
調印祝賀会に武田県連会長が出席

2月27日、福岡市内のホテルで県弁護士会と大連市律師協会の交流提携調印式がありました。
式典には両会の弁護士、吉田宏福岡市長、報道関係幹部、武田正勝協会県連会長など約70人が出席。池永満県弁護士会長は、中国人強制連行・強制労働訴訟や残留日本人孤児訴訟などに携わってきた体験にも触れ、「平等、互恵、内政不干渉の原則に則り、相互交流を通じて、基本的人権の擁護と社会正義の実現に貢献する」と力強く挨拶しました。張耀東大連律師協会長は「中日友好のためにも両国の弁護士の交流は大切。レベルも高まる」と挨拶しました。武田県連会長は吉田市長をはじめ、参加者と交流を深めました。
2010年 3月 15日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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笑いあり 餃子あり 酒あり
楽しく活動をつづける 田川支部
第2回目の餃子会
日中友好餃子会が11月14日、市民会館調理室で開催されました。
講師に中国帰国者の鬼丸さんご夫妻にお願いし、楽しい餃子会になりました。
次回に向けて、ご意見ご希望をお寄せ下さい。
太極拳25周年70名
11月28日、田川支部太極拳教室開講25周年の記念交流会が開催されました。
今回70余名が一堂同に会して各教室の成果発表が出来ました。
本部太極拳委員会会長からもメッセージがありました。
炭鉱節の大きな輪
太極拳25周年記念交流会終了後、直方「いこいの村」で忘年会が開催されました。
お風呂に入ってさっぱりした人・表演服から大急ぎで着替える人・余興のため和服に着替える人。
忘年会が始まる前から大賑わいです。
例年、太極拳の受講生が大半で少々さびしかった忘年会も、今年は一番ヶ瀬支部長はじめ、田川支部会員の柿田市議会議員・篠原さん・岡田さんなど参加もあり、最後の炭鉱節の踊りも一段と大きな輪になりました。
中国語講座準備中
田川でも「中国語講座」を開設して欲しいとの声が聞かれてましたが、なかなか講師が見つからず今日までのびのびになっていました。
今回、鬼丸さんへお願いしたところ、快く引き受けていただけました。
現在、開講に向けて準備中です。
2010年 1月 10日 田川支部 中国残留邦人帰国者直方支部 | Permalink
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会員の声と悩みに心を寄せ
「無料法律相談会」2月スタート
相談内容は4名の弁護士が完全管理します
12月7日、福岡支部が主催する「無料法律相談会」の打ち合わせが行われました。
後藤冨和支部長が「会員の要望に応えられるような無料法律相談などの活動も必要ではないだろうか」との提案が、2月から毎月第3金曜日18時でスタートすることになりました。
残留孤児や中国人強制連行事件の問題などで日頃から弁護士のみなさんに多大な支援をいただき、また、何かと相談をしていたこともあって、実現に至ったものです。
弁護士の林健一郎さん(元協会県連会長)、椛島敏雅さん(中国残留孤児福岡訴訟弁護団事務局長)、福留英資さん(中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟常任弁護団)、後藤冨和さん(同常任弁護団)が交替で相談に応じていただきます。
相談時間は30分以内、料金は無料。
相談内容はすべて担当された弁護士の方が責任もって管理され、事務局にも知らされませんので、秘密は完全に守られます。
事前に予約が必要で、福岡支部以外の方も受け付けます。
「医療・健康相談会」も準備中
「医療・健康無料相談会」も、病院長の武田正勝県連会長の協力で現在、準備がすすめられています。
2009年 12月 27日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 法律相談・医療健康相談 | Permalink
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つながりあう日本と中国
久留米大学で講演会 講師は馬奈木支部長
12月2日、久留米大学で、馬奈木昭雄弁護士の講演会と先生を囲んでの懇談会を開きました。
主催は、ぱんだ(久留米大学日中交流サークル)で、支部は協賛で応援しました。
テーマは学生のみなさんが決め、先生にお願いしました。当日は学生・留学生を中心に、30名余が参加し、深い感銘を与えました。
先生は、中国残留孤児福岡訴訟弁護団長でもあり、「中国残留孤児の悲劇はなぜ生まれたのか」と問いかけ、明治政府の「富国強兵」の目的、朝鮮・中国侵略の歴史を説き、「王道楽土」建設の名の下に送りこまれた満蒙開拓団が、戦後も「現地土着方針」の下で、将来の再興を期して「棄民」されたこと、この方針撤回は何もなされていないことなどを話されました。
懇談会では、ファシムが台頭する原因が話題となりました。先生は、最後に、市場経済を取り入れた中国が、社会主義体制の中で、貧富の格差をどう克服していくか、壮大な歴史的実験に挑戦していることに注目していると語られました。
日本でアメリカ流の経営学修士を取って中国に帰ろうと頑張っている留学生たちには、根本的問いかけとなったようです。
学生の平田さんからは「今も苦しんでいる方がいるということが、戦争の責任から決して背を向けてはならないことの大きな理由だと思います。」と感想文が寄せられました。 (野)
2009年 12月 27日 中国残留邦人帰国者久留米筑後支部 | Permalink
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11月23日 福岡市で中国料理の作り方を教わりながら帰国者と市民が交流するつどいが開かれました。
これは、新しい支援策にもとづいて中国帰国者自立促進協議会の事業として実施されたものです。
当日は、帰国者の会の木村琴江会長が「この日を機会に市民との交流がより一層深まることを期待します」とあいさつ。
55名の参加者(協会福岡支部からは20名)は5班に分かれ、中国の饅頭と酢物、中華サラダの作り方を習いました。
鏝頭作りは、酵母菌が入った床に薄力粉を入れよく混ぜしばらく寝かせ発酵させ、それを5種類のお祝いの饅頭を造り、蒸すという作業です。
中国語・日本語・身振り手振り、笑いが飛びかい、失敗しながら何度も形をつくり替えるという楽しい時間でした。
中華料理店から本職の人の応援もあり、糖酢海老・紅焼排骨・木須菜の3品が追加され、昼食は饅頭を食べながら中華料理の作り方について話がはずみました。
午後は、全員の自己紹介から始まり、協会からは、日本の歌と三味線演奏による民謡などを披露しました。
帰国者からは太極拳、踊り、日本の歌の発表があり予定時間をオーバーするほど交流がはずみました。
2009年 12月 11日 福岡支部 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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市民の中へ日中友好を
帰国者とともに「収穫祭」でぎょうざ販売 八幡支部
10月25日、北九州市八幡西区の黒崎商店街で、「カムズ黒崎名店街収穫祭」がありました。
中国帰国者で日中友好協会八幡支部の原田育子さん、小田原玉枝さんを中心に「手づくりのギョウザ」の販売を支部として取り組み、250人分の水餃子が売れ、市民に協会の「大宣伝」も行いました。
この取り組みの中で、新しく帰国者の人を会員として迎えました。
2009年 11月 20日 中国残留邦人帰国者八幡支部 | Permalink
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福岡県連合会は10月18日、福岡市中央市民センターで、第48回定期大会を開きました。
大会は、来年6月の全国大会までに、新たに2百名の新しい仲間を迎えるために、「確信がもてる大会に」という位置づけで開かれました。
このため、特別に企画した矢崎光晴事務局長の講演や強制連行問題をとおして全県的に友好運動を進める特別報告、また、諸分野にわたっての発言によつて、「協会の歴史と活動の意義がよくわかり本当によかった」「生き生きとした大会だった」と参加者が確信と情熱を強めるすばらしい大会となりました。
午前中は、矢崎本部事務局長が「日中友好運動の誇りと確信、そして展望・変革の力を持つ国民的な運動へ」と題して特別講演を行いました。
氏は、日中友好運動の60年を振り返り、戦前戦中の反戦平和活動、協会創立前後の情勢、中国の干渉との闘いと教訓、関係改善後の活動の発展と現状と課題について、70分にわたり、豊富な資料を使いながら、講演を行いました。
特に 「国民運動としての日中友好運動」については、中国の存在、歴史認識問題、「社団日中友好協会」てとの関係、民主連立政権の下での活動、変革の力を持つ協会づくりの話には、みんな、瞬きもせず、熱心に耳を傾けていました。
矢崎氏は最後に「日本を変え、中国を変え、アジアと世界を変える運動が、日中友好運動です。
生命と人間を大切にする社会を作るためにも協会の存在と活動の意義は大きなものがあります。
2万人協会に向けて福岡の奮闘を心から期待します」と講演を結び、会場から大きな拍手が起こりました。
講演後、チベット問題などについて6人の質問に矢崎氏はひとつひとつ丁寧に答えました。
午後は、大会となりました。
武田正勝会長の挨拶、議長に星野信、安永亮両氏を選出し、この1年間の活動の総括、新年度の活発な運動方針、財政の決算、予算及び人事を討議し、満場一致で承認しました。
大会は、13名の代議員から中国人強制連行事件と友好運動、青年学生が参加する運動、帰国者支援運動、班つくりの重要性、会員が増えると活動が豊かになるという体験、戦争展の一般市民の参加が増えた、組織の弱点を克服するために事務局体制の強化、協会の中国語講座の魅力、日ごろから会員を大事にすることが協会発展に繋がることなど、短い討議時間にかかわらず多岐にわたる心打つ発言があいつぎました。
役員改選では、6名の新任の役員を含め、34名が選ばれました。
最後に「県連は2千名の組織確立に向かって着実に前進する」との大会宣言を発表し、日中友好運動の更なる前進を誓い合いました。
大会終了後、矢崎本部事務局長、武田会長も参加して懇親会を開き交流を深めました。
2009年 11月 14日 福岡県連合会 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新中国建国60周年を翌日に迎えた、9月30日、福岡市内の中国帰国者の人々約50人が、手料理をもちより、 歌や踊りを楽しみながら、中国の建国を祝いあいました。
当日は養父母をたずねて、また、墓参のために中国に行っている人も多くいました。。
県連から松山盛利事務局長が 招かれて参加し、参加者と交流を深めました。
2009年 10月 8日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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8/15(土)公開
福岡市天神3丁目
親富孝通り
シネテリエ天神
電話 092-781-5508
日中友好協会特別料金
前売り 1300円
シニア 900円
(一般 1800円)
チケット・問合せ
日中友好協会福岡県連
電話 092-761-0604
2009年 8月 5日 文化・芸術 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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第15回平和のための戦争展in北九州
8月30日(日) 11:00~16:00
8月31日(月) 10:00~16:00
門司港レトロ地区
入場無料
■先行企画
8月23日(日) 午後
若松区内で戦争遺跡ツアー
同区深町の朝鮮人遭難慰霊碑を振り出しに砲台跡、
強制連行施設跡などを巡る。定員50人。
申し込み・問い合わせは事務局093-582-4181
■開催内容
【旧大阪商船ビル】
30日(日) 11:00~16:00
31日(月) 10:00~16:00
原爆や空爆の被害、戦中の庶民生活が分かる資料などを展示
・戦争の遺品展
・南京事件展
・イスラエルのGAZA 攻撃写真展
・731部隊展
・原爆の被害と門司・下関の空襲の資料
・中国報道写真家・沙飛展
・朝鮮からの強制連行写真
他
【ヴァストホール・門司港ホテルそば】
30日12:30~14:00
戦争体験者の「語り部」
元軍人、引揚者、シベリア抑留者、残留孤児など戦争体験者
【門司レトロ観光物産館 ・ 港ハウス】
30日11:00~14:20 多目的ホ-ル
「平和のうたごえ」青年の自主企画
映画、青年企画等
演奏:「ねがい」「八月の小倉」「誓い」「花をおくろう」
30日14:30から
記念講演
毛利 正道 弁護士(長野県しらかば法律事務所)
憲法九条を世界に広げる諏訪地方ネットワーク事務局長
「GAZA攻撃から、戦争と人間の矛盾を問う」
■主催 2009平和のための戦争展in 北九州実行委員会
〒803-0813 小倉北区城内1-1 北九州市職労内
TEL:093-582-4181 FAX:093-582-4183
■問合せ 日本中国友好協会福岡県連合会
TEL/FAX: 092-761-0604
2009年 8月 5日 イベント・講演 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 平和のための戦争展 | Permalink
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福岡県内の中国残留孤児とその家族が、趣味や特技を活かして、「歌舞隊」を4月に結成し、その初公演が、6月29日、協会福岡県連合会の武田正勝会長が経営する病院でありました。
当日は、入院患者や職員の前で、約30名が歌や踊りを披露し大喝采をあびました。中には、日本の歌に涙して聞く高齢者もいました。
フルートを演奏し、合唱の指揮者も務めた木村安弘さんは、「私は日中友好協会の会員です。今後、公演を続けていきたい。協力をお願いします」と目を輝かして語っていました。
挨拶をした武田会長は「みなさんは、戦争のために苦労されました。今後は、歌や踊りを楽しみながら幸せになってください」と帰国者を激励しました。
2009年 7月 8日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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北九州大学班は、5月24日、小倉南区で「餃子会」を開き、学生・留学生、平和友好祭に参加して合流した青年に加え、久留米大学班からも2名が駆けつけ、小倉支部会員、中国語講座受講者などを含め総勢43名で大変な賑わいとなりました。
調理指導してくれた帰国者の小田原さんと原田さんをかこんで、具を刻み粉をねる作業からはじまり、皆で皮をのばして包んでいくと個性的な餃子が出来あがり、会場はワイワイ、ガヤガヤ、の興奮状態となりました。
大量の餃子が並んだところで会食。各テーブルからいっせいに「おいしい~」「うめ~」などの声があがりました。
会食の合間に、原小倉支部長から「全国に先駆けて学生班として北九大班が生まれたことは画期的なこと」「50年代の平和友好祭には当時の北九大班は大型バスで参加した」などの話があり、学生たちは目をまるくして驚いていました。
北九大班のメンバーが参加者へのお礼と自己紹介をした後、久留米大学班から「沙飛写真展の手伝いを通して班を結成しました」と報告されると、「ほーッ」と感心の声があがりました。
自己紹介では、京劇公演の実行委員長をした三輪さんが夫婦で来られ「こんなに美味しい餃子が食べられて、本当に来て良かった」と語り、青年・学生たちは「はじめての人と会食できて楽しい」「中国のことが好きなのでいろいろ学んで交流したい」「友好祭で中国の留学生と話せて良かったです」などと語っていました。
支部役員がびっくりするほど、皿に盛られた水餃子は次々と参加者の胃袋へとおさまり、この日の最高記録は35個でした。
大量に作ったはずの水餃子がみごとに完食され、今後も北九大班と久留米大学班の交流をはじめ参加者の再会を願って名残惜しく宴は終わりました。
今後も楽しい企画を 野口貴史 北九大班
今回、餃子会を企画して本場の水餃子を作り、そして実際に味わうことができて良い経験になったと思います。また、たくさんの人たちと交流することができて楽しい一日となりました。
今後も楽しい企画を班の皆と一緒に計画していきたいと思います。
2009年 6月 9日 小倉支部 イベント・講演 中国残留邦人帰国者久留米筑後支部 筑後地区協議会 京劇 沙飛写真展 | Permalink
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福岡支部は、4月19日、昨年7月以降入会したみなさんの歓迎会を開きました。
支部では今まで年1回歓迎会を開いていましたが、早く新しい会員のみなさんの要求などを聞き、交流を深めるために今年から年2回開くことにしました。
当日の出席者は32人。新会員は21名のうち13名。
岡野昌明副支部長の歓迎の挨拶。星野信理事長の日中友好協会の歴史と活動の紹介の後、会員バッチが新会員に記念として贈られました。
新会員は帰化した女性のスポーツ指導者、北京風雷京劇団公演時の入会者、日本語講師、中国帰国者、中国滞在体験のある会社員、南京虐殺事件を研究している英語講師、戦争体験を本にした主婦などその経歴は多彩。
出席者は水餃子と手づくりの料理を口にしながら、交流を深め、「平和と日中友好を願って帰国者の会を作りました。
協会は私たちの家です」「旧満州で敗戦を迎え、戦争の悲惨さを体験しました。もう戦争はイヤです」「中国人学生がアルバイト先でけがをし、保障もなく不安。相談にのつてほしい」など、入会の思いや日中友好の大切さなどについに語り合ました。 (O)
2009年 5月 2日 福岡支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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文化の香りただよう
福岡日中文化センターが作品展 45名60点
福岡日中文化センターは、3月30日~4月5日まで、「第7回文化作品発表展」を開きました。
日中友好協会や日中文化センターの会員や家族、留学生、中国帰国者など45名による、水墨画など60点の素晴らしい芸術作品(中国と日本のきりえ・書・絵画・写真・手芸・彫刻・陶芸・中国の凧など)が展示され、センターホールは、文化の香りが漂う豊かな空間となりました。
この間、中国映画会、きりえ体験講座、うたごえ喫茶も催され、楽しいひとときを共有することが出来ました。きりえ体験講座では、新聞社の取材もあり、日中文化センターの宣伝もすることができました。また、初めて「出品者交流会」を企画し、作品を創っ想いや、作品の創りかた、関心を持ったきっかけなどそれぞれの想いをたっぷり語り合い、交流を深めました。
2009年 4月 7日 福岡日中文化センター イベント・講演 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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九州地区中国帰国者第7回総会
弁護団、支援する会も参加
九州地区中国帰国者第7回総会が3月20日、各地から約70名が参加して福岡市内で開かれました。
当日は会に先立ち、裁判で世話になった、弁護団、支援者へのお礼をこめて、帰国者の人が餃子を山のように作って参加者に振まいました。両親といつしよに来た子どもたちも多く、「おいしい、おいしい」とにこにこして食べていました。
集会では、帰国者の会の木村琴江会長、弁護団の椛島敏雅事務局長、支援する会の松山盛利協会福岡県連合会事務局長が挨拶をしました。
松山氏は、帰国者の人が中国で受けた悲惨な経験について、「戦争に反対し、日中国交回復ために全力を尽くし、そして、文革の被害者である日中友好協会はみなさんの理解者です」とのべ「帰ってきて良かったといえるような日本をつくるために、日中友好協会とともに今後もがんばりましょう」と語りました。
支援給付の説明会では、田中謙二弁護士が、帰国者がわかるように、易しい言葉で丁寧に話しました。質問も多くありましが、みなさん、よく理解されたようでニコニコして聞いていました。
総会では、木村会長の永年の苦労に対して、川添緋砂子さんが「木村さんは、救われた命は世のために尽くさなければならないと、病床にある夫をかかえて、闘ってきた。木村さんは帰国者の誇りであり、宝です」と木村さんの労をねぎらいました。
2009年 3月 29日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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私たちは日本人。昔の都、京都、奈良に行きたい
中国帰国者交流集会開く
新支援策による交付にあたり、交流集会が提訴4周年を記念して12月8日、福岡市で原告団、弁護団、支援者約60名が参加して開かれました。
はじめに椛島敏雅弁護団事務局長から支援法に基づく「支援プログラム」について説明がありました。その後、出席者から「支給金額が少ない」「みんなに受け入れられるような相談員を選べないのか」「どんな講習会だったら参加交通費がもらえるのか」などの質問や「私たちは日本人。昔の都、京都、奈良に行きたい」などの要望も出されました。
弁護団は一つ一つ丁寧に説明しましたが、資料を整理して、改めて年明けに説明会を行うことになりました。最後に椛島事務局長は「今後、2、3世のことも含めていろいろな問題も出てくるでしょう。弁護団、支援者と今後も一緒に活動し、笑い声が出るようなお互いの関係を作っていましょう」と訴えました。(K)
2008年 12月 25日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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苦難を乗り越え
創立五十周年盛大に迎える
祝賀会・総会を開催 協会田川支部

11月23日、田川支部は第21回定期総会を開きました。新会員の紹介の後、支部創立50周年の節目の年に当り、「この50年をふり返って」、一番ヶ瀬宗幸支部長が講演しました。
一番ヶ瀬氏は協会と田川支部50年を重ね合わせながら歴史を語りました。、文化大革命時、苦しい状況にかかわらず、日中国交回復運動や市長杯争奪囲碁大会、中国映画の上映・帰国者との懇談会等を大きくそして地道な活動を続けてきたことを報告しました。永年の願いであった「強制連行殉難者鎮魂の碑」建立に向けて、建立地を、田川市と粘り強く交渉、資金確保のため「吉林省民族楽団公演」「二胡コンサート」などを開催、二〇〇二年に無事建立・除幕式を終わらせることができました。その後、中国人強制連行訴訟原告団と家族が田川を訪れ、交流集会を開くなど「鎮魂の碑」の意義を風化させてはいけないと一番ヶ瀬氏は強く語りました。
来賓として出席した元田川支部事務局長の松山盛利県連事務局長は、日中友好運動が極めて困難な時代、田川支部が全国の一割の日中国交回復署名を集めた日中友好への気概と情熱を、「侵略戦争は濡れ衣」と声高く叫ばれる今の時代に、再度、大きく全国に示してほしいと語りました。
討議では一年の活動報告・監査報告、今後の取り組、予算案の提案がされた後、新事務局次長に若きホープ本田京子さんを選出しました。また、田川支部を長い間支えてきた野中満さん、中村仁美さんに表彰状と記念品が贈られました、 定期総会終了後、建交労・福建労、歴代の専従事務局員の来賓と会員・準会員40名余が参加して、「支部創立五十周年を祝う集い」が開催されました。
支部長挨拶の後、会員の山内早苗さんの祝儀舞で楽しい集いが始まりました。太極拳受講生のの表演もあり、終始和やかな中にも、50年を振り返って苦しかったことや、楽しかったことなど話題が尽きませんでした。
田川支部では太極拳の輪が順調に広がっていく中、会員の中から「中国語講座を開いてほしい」「中国映画を観たい」という声もあります。会員のニーズに応えていく事が、これからの支部を大きく発展させることになると確認しあいました。(仁)
2008年 12月 25日 田川支部 中国残留邦人帰国者 太極拳 | Permalink
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22名、会員が一気に増えました
1千名会員を全国大会までに
日中友好協会福岡県連合会は11月16日、20名の役員が参加して、今年度、第4回目の理事会を開催しました。
当日は、北京風雷京劇団の福岡と北九州の両公演を大成功させた喜びで、討議も盛り上がりました。 この公演に示された情熱と日中友好運動が極めて困難な時期に、田川支部が国交回復署名運動で全国の10分の1を集めた気概を今後の運動で生かし、2千名県連(来年6月全国大会までに1千名)達成と若い人々に運動を引き継ぐことができるように、大奮闘することを誓い合いました。
また、第47回県連大会の日程の決定と組織拡大の具体的方針ついて討議を深めました。
なお、公演当日と取り組みの中で北九州で17名、福岡で5名。合計22名の会員が一気に増え、また、帰国者のサークルで入会運動が取り組まれていること、業者団体が加入に向けて役員会で手続きがとられていることが報告されました。(K)
2008年 11月 22日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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いよいよ本番
北京風雷京劇団 24名
10月12日仙台空港へ到着
宮城から 宮崎まで 秋風にのって
日本列島縦断
北九州は、11月1日 福岡は11月3日
☆中国帰国者や中国留学生、障害者共同作業所の利用者の方々を無料招待します。
☆中国四川大地震災害支援に益金の一部を充てます。
詳しくは、公演ページで。
こちらをクリック。

2008年 10月 14日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 京劇 | Permalink
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帰国者、学生、会員31名が参加し餃子交流会
小倉支部と北九大準備班
小倉支部と北九大準備班は6月18日、中国帰国者の皆さんなど、31人が参加して、「ぎょうざ会」を開きました。当日は北九州国際交流協会のひとも参加しました。
四川大地震救援募金で一緒に行動した学生・留学生や帰国者も多数が参加し、中国語学科の学生2人は同級生の友人を連れてきてくれました。
具材を切り粉をねってのばし、皮をつくって上手に包む帰国者の皆さんや会員に習って、みんな、ワイワイと楽しくぎょうざ作りにいどみ、「韓国」のぎょうざも登場しました。出来上がったぎょうざを食べるあいまに、帰国者の原田さんが終戦間近の中国で日本兵が敗走するなかで足手まといになるとして、開拓団の日本人を日本兵が殺害し、子どもだった原田さんと妹は首や腹を切りつけられ、お母さんや弟は殺されてしまったという体験を語りました。
初めて聞いた参加者も多く、戦争の悲劇を涙ながらに聞き入りました。全員が自己紹介し、留学生の歌も披露され、お腹いっぱい食べ楽しく交流して勉強にもなり、5時間はあっという間に過ぎました。
2008年 7月 8日 小倉支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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街頭、募金箱、送金、チャリティーで150万円支援 6月25日現在
中国国民の苦難は日本国民の苦しみ
今こそ、友好と援助の手をさしのべよう
被災地に駆けつけ、子どもたちを励ます
温家宝首相 中国画報6月号から転載
5月12日、中国四川省で発生した大地震は中国の国民と国土、建造物に甚大な被害を及ぼしました。胡錦濤国家主席、温家宝首相など首脳は被災地に赴き、救援行動の先頭に立つなど、政府は迅速な対応をしています。国民も若者を中心に全国から救援に駆けつけています。多額の募金も国内外から寄せられています。
人民解放軍の援助活動
中国画報6月号から転載
日中友好協会も全国各地で直ちに支援活動をはじめました。福岡県連と各支部は緊急会議や電話連絡を取り合いながら、「日中友好を掲げるわが団体が今こそ先頭に立ち、中国国民の支援に立ち上がろう」と行動を開始しました。地震発生当日の12日は即刻、中国福岡総領事館に見舞電を送り、15日は福岡市天神で、中国留学生、中国帰国者の人々にも呼びかけて街頭募金活動を行いました。当日は合わせて40名が参加し、多数の放送局、新聞社の取材があり、活動状況が全国に報道されました。
北九州の各支部が協力して街頭支援活動 小倉
17日以降、運動は全県に広がり、北九州の小倉、戸畑、八幡、門司の各支部、または協議会が、更に、久留米筑後、糸島の支部が駅頭での活動や講座、サークル参加者、留学生らにお願いし、田川支部はコンサートなどで募金を集めました。これらの支部の活動は一般新聞でも大きく取り上げられ、県民や企業、団体からも事務局に多額の支援募金が寄せられました。
武総領事(右)に援助金を渡す松山
県連事務局長(中央)と中西常任理事
福岡総領事館 6月11日
支援金は5月20日、6月11、26日の3度にわたり、中国総領事館を訪れ、武樹民総領事に手渡しました。武樹民総領事は「協会が市民の中に入り支援を訴え、しかも、永年にわたる中日友好の活動に私は大変感動しています。災害は甚大ですが被害者救援と復興のために全力を尽くしています。中国の政府と国民は日本国民の支援に感動し、心から感謝しています」と語っていました。
劉福君さんと大阪、東京からの一流奏者を
迎え、会場は魅惑と感動に包まれました
6月13日、県連主催のチヤリテイーコンサートの日に、収益金の全額と3次の支援金(目録)を楊鉄林領事に壇上で手渡しました。
なお、支援金の総額は1,497,562円となりました。
中国領事館の楊領事(右)に
援助金を渡す武田県連会長。
後ろ左は劉福君さん
500名収容の会場はいっぱいになりました
県連主催チャリテイーコンサートの
司会者、行徳未麻さん
募金は下記の口座でも受け付けています。
郵便振替口座 名義 日本中国友好協会福岡県連合会 口座番号 01790-9-1717 |
通信欄に「四川省地震」と明記してください。 |
2008年 6月 29日 中国残留邦人帰国者 支援募金 | Permalink
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中国・四川大地震被災者救援 緊急チャリティーコンサート
出演: 劉福君(二胡)、沈兵(楊琴)、費賢蓉(琵琶)
とき: 2008年6月13日(金) 18:30開場 19:00開演
ところ: 早良市民センター
福岡市早良区百道2-2-1 電話 092-831-2321
入場料: 1,000円
当日会場入り口でも義捐金の受付をいたします。
予約・問い合わせ: 電話 092-761-0604
申し込み500名で締め切り
主催: 日中友好協会福岡県連合会
後援: 福岡県中国帰国者の会、福岡日中文化センター
募金は下記の口座でも受け付けています。
郵便振替口座 名義 日本中国友好協会福岡県連合会 口座番号 01790-9-1717 |
通信欄に「四川省地震」と明記してください。 |
2008年 5月 24日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 二胡 支援募金 | Permalink
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中国国民の最大の苦難に最大の支援を送ろう
支援募金のご協力を
募金は下記の口座でも受け付けています。
郵便振替口座 名義 日本中国友好協会福岡県連合会 口座番号 01790-9-1717 |
通信欄に「四川省地震」と明記してください。 |
協会本部、各都道府県連合会、支部でも受け付けています。
お問い合わせください。
四川省で発生した地震の被害の大きさは想像に絶するものです。 胡綿濤国家主席 温家宝首相が被災地での救援行動の先頭に立っなど、中国政府は迅速な対応をしていますが、オリンピックを間近にして、中国国民の苦しみには同情と深い悲しみを禁じえません。
日中友好協会福岡県連合会は、中国福岡総領事館に見舞電を即刻送りましたが、15日、17日は福岡市天神で福岡支部を中心に、中国留学生、中国帰国者の人々にも呼びかけて街頭募金活動を行いました。 初日の15日は合わせて40名が参加し、放送局、新聞社も「わんさ」と取材に来ました。
日中友好を掲げて両国民の友好・連帯のために活動している日中友好協会は中国国民の支援のために引き続き奮闘します。県民の皆さんのご支援をよろしくお願いします。
支援金はすべて中国福岡総領事館に届けます。
2008年 5月 18日 中国残留邦人帰国者 支援募金 | Permalink
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帰国者の人を交えて新入会員歓迎のつどい 八幡支部

八幡支部は3月8日新入会員歓迎のつどいを行いました。
当日は、朝9時に帰国者の方の家に餃子作り材料運搬のため、磯部支部長が行動開始。 会場には、帰国者の方20名と安部タマエさんが参加しての餃子作りが始まりました。 小倉支部から、深谷節子さんが参加してくれました。 餃子作りの合間には、帰国者の方同志が仲良く中国語で交流していました。 八幡支部からの参加は、13名でした。
つどいの最初は、餃子パーティとなりました。
歓迎と激励の挨拶を磯部支部長が行い、続いて北九州協議会会長の原博道氏が中国語を交えて挨拶をいただき、和やかな開会となりました。
つづいて、残留孤児国賠訴訟福岡原告団の原田郁子さんと弁護団の安部千春弁護士の話に帰国者の方から今後のことも含めて質問もありました。 その後、北京風雷京劇団訪日公演の宣伝ビデオ鑑賞をした後、会員の皆さんの近況と友好の想い等を語り合いました。
今後の取り組みについては、中国映画「覇王別姫」の上映会をすることを申し合わせました。(原)
2008年 3月 22日 北九州協議会 中国残留邦人帰国者八幡支部 交流 | Permalink
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春節と新支援法成立を祝い
喜びに満ちた集い
2月10日、福岡市「あいれふ」にて「新春のつどい」が開かれ、100名以上の参加者でにぎわいました。
この集いの主催は、中国残留孤児国賠訴訟福岡原告団。協賛は、中国帰国者を支援する会です。
時は中国の春節(旧正月)、新年と新支援法の成立を同時に祝い、喜びに満ちた集いになりました。
まず、午前9時半から水餃子作りを原告団の人を中心に行いました。その水餃子に舌鼓をうった後、交流会に流れていきました。
はじめに、木村琴江原告団長、木梨吉茂弁護団副団長、名和田澄子支援する会会長が挨拶。日中友好協会や福岡日中文化センター会員の三味線、胡弓演奏、手品、バナナのたたき売りなど芸達者な出演者の後は、中国人就学生による少数民族の踊り、最後の閉めは元テノール歌手で原告団の山田博義さんによる歌唱となりました。山田さんの力強い歌唱力に惹かれて愉快なダンスも加わり和やかな雰囲気の中で閉会となりました。
参加者の約半数は原告団の人々でしたが、いつになくどの人の表情も晴れやかで新年の門出を祝うよき集いでした。 (和)
参加者の感想
◎帰国者の方が通訳の人の話に相づちを打って、楽しく聞いておられるお姿をみて、中国に思いをはせられているのだなーと思うと涙が出ました。「帰国してよかった」となってもらいたいです。
◎帰国者です。今日は大変よかった。中国・日中世世代代友好にいきましょう。
◎とても楽しかった。今後、帰国者の話をお聞きする機会があればと思います。
2008年 2月 22日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「基地」 沖縄で協会の
発展をめざして活発な討議

2007年度の日中友好協会九州沖縄ブロック会議が2月2日、目覚しい活動を展開し、全国の注目を浴びている沖縄県支部の地元、那覇市で開かれました。
当日は、本部から田中義教理事長が参加。鹿児島を除くすべての県から40名の代表が出席しました。福岡県連からは9名が参加しました。中国総領事館の武樹民総領事からメッセージが寄せられました。

はじめに松山盛利氏が、57回全国大会を成功させるため組織を前進させることなど、会議を開く目的について挨拶をし、つづいて、沖縄支部代表が歓迎挨拶をしました。 田中義教理事長が本部報告を行いました。 田中氏は中国との今年度の交流及び協会活動について、「日中両協会代表の相互訪問団」「残留孤児支援」「文化活動」の貴重な成果について報告しました。 更に、北京風雷京劇団公演、沙飛写真展などの今年度の国民的視野での取り組みについて説明しました。 また、中国が「全方位外交」を保持しつつも、協会に対して誠実で積極的な対応をしていることも、具体的ま事例を挙げて説明しました。 このような活動の前進と成果に確信をもって、組織の倍加を目指して、平和・友好交流活動を更に大きく発展させることの大切さについて強調しました。 そして、このためには会員の要求と楽しい活動を基礎にすることだと語りました。
このあと、短期間で4支部240名の組織となった沖縄県支部から特別報告を受け、情勢と組織拡大を中心に討議を行いました。 討議は時間が足りないほど活発に行われました。 中には「いろいろ質問されると答えることができないので、入会を勧めることができない」などの悩みや、餃子問題について協会の対応について明確な説明を国民にすべきだとの意見もだされました。 福岡県連から参加した高尾翠氏(「天皇の軍隊と平頂山事件」の発刊について)、岡野昌明氏(青年層を対象にした活動)、岩佐英樹氏(組織拡大の留意点)、中村訓八氏(京劇公演の取り組みと大学支部の現状についての質問)、東泰之氏(中国人妻の会の活動)の5氏が発言しました。

交流会では沖縄舞踊など郷土芸能がつぎつぎに披露され、中国文化の影響を受け、伝統文化が大事に民衆の中に保存伝承されていることに深い感銘を受けました。
翌日はバスを借り切り、米軍の基地と集団自決あとを現地支部会員の丁寧な説明を聴きながら見学しました。参加者は、侵略戦争を二度と許さないために「日中不再戦」運動の重要性を改めて確認しあいました。
また、戦争中、沖縄から宮崎県に学童疎開させられた人々との懇談会も開かれ、この内容は地元の新聞が大きく報道しました。
2008年 2月 9日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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梅の花もほころび、春の訪れを感じる今日この頃ですが、皆様におかれましては御清祥のことと存じます。
昨年末12月27日に中国残留孤児福岡国賠償原告団は、福岡地裁で訴訟を取り下げました。
これによって2004年12月の提訴以来、国の謝罪と補償を求めた裁判は終結し、新しい支援法のもと既存の生活保護に頼らない生活が今年4月よりスタートします。
しかし、新しい支援給付を受けるには煩雑な手続きを経なければなりません。 この手続きは原告一人一人条件が違うので、きめ細かく粘り強い弁護団による相談活動によって支えられ進められているところです。裁判終結の本格的なお祝いは、この手続きが終了して支援給付金や増額された国民年金が原告の手元に届く4月以降に想定しています。 この支援給付によって、私達もようやく普通の日本国民の生活に近づくことができ、人間としての尊厳を取り戻すことができつつあります。
一つの区切りのついたこの期限に原告団によって「新春のつどい」を開催したいと思います。
時はおりしも中国の春節、私達の命を助けてくれた中国の養父母もしのびつつ旧暦の新年のお祝いも兼ねて手作りの水餃子を味わってみてください。
寒い時期ですが皆様のお越しを心よりお待ちしています。 |



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記
*日時 2月10日(日) 開会12時 閉会15時頃
*場所 あいれふ9階 大研修室
福岡市中央区舞鶴2-5-1
*内容 手作りの餃子で食事・歌・踊り・話など
*参加費 一人500円
お願い
◎餃子作りにご協力いただける方は9時半8階調理室にご集合ください
◎出演者を募集しています。1チーム(1人でも可)8分以内
◎申し込み 2月7日まで「支援する会」へ
主催 中国残留孤児国賠償訴訟
原告団長 木村琴江
協賛 九州地区中国帰国者を支援する会
代表世話人 名和田澄子
福岡市中央区渡辺通2-8-23 日中友好協会福岡県連合会内
電話・ファックス 092-761-0604
2008年 2月 1日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留孤児福岡訴訟終結
原告団、弁護団、支援者の活動と国民の協力が結実
「日本人として扱ってほしい」と2004年12月から5陣にわたって、137人の中国残留孤児が国を相手にあいてに賠償を求めていた「福岡訴訟」口頭弁論が12月27日、福岡で開かれました。
新たな支援策を盛り込んだ、改正帰国者支援法の成立を受け、原告全員が訴訟を取り下げました。国側も同意し、裁判長は訴訟の終結を宣言しました。
木村琴江原告団長(日中友好協会会員)は、「これまで、苦難の連続だった。これで、日本人として尊厳を持ち、安心して晩年の生活を送ることができる」と意見陳述をしました。
馬奈木昭雄弁護団長は「孤児たちが本当に帰ってきてよかったと思えるように、国は誠実に支援策を実行してほしい」と訴えました。閉廷後の報告集会には原告、弁護団、支援者、約二百名が集まり、よろこびをわかち合いました。
2008年 1月 12日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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お礼の街頭宣伝 県・市にも要請
支援立法成立にあたって
福岡原告団と弁護団、支援する会は、福岡市内の天神町で、提訴3周年行動として、支援立法の成立にあたって、12月8日、原告、弁護団、支援する会、協会福岡県連から30名が千枚のチラシを配りながら、お礼の街頭宣伝を行いました。
反応はとても良く、30分ほどでチラシを配り終えました。
その後、福岡県庁と福岡市役所を訪れ、新支援策の実行にあたって要請をおこないました。
原告団から、新支援策では自費帰国者に対する通訳支援は予定されていないのではないかなどの質問がされました。
2008年 1月 12日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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今後の活動がさらに大切
支援する会が総会
九州地区中国帰国者を支援する会は12月27日、福岡市内で第5回総会を開き、あらたな支援法の成立を受けて、今後の活動をどのようにすすめるかについて討議を深めました。
「帰国者の老後の生活保障は一定前進するが、まだまだ地域社会では孤立しがちである」「法運用の上で今後いろいろな問題が出てくる。会の活動を強め支援できるようにしていくことが一層大事になってきた」などの意見が活発に出されました。
そして、今後、裁判終了に伴い、原告団を支援して、多くの団体、個人に感謝とお礼の挨拶をおこなうにともに集会を開くことにしました。
また、「支援法の理解と周知を帰国者とともにすすめる」「会員の拡大と組織運営の強化に努める」「帰国者との交流を強める」などを決めました。また、各県、各区から世話人を選び、事務局は福岡地区が担当することにしました。
2008年 1月 12日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留孤児支援今後も大切
弁論閉廷後、報告集会に150名
中国残留孤児福岡訴訟の口頭弁論が11月21日、福岡地裁でありました。新支援関連法案が成立する見通しをうけて、進行協議に入りました。
法案が成立すれば、次回弁論12月27日で和解により訴訟は終結する見込みです。
しかし、たとえ訴訟が終結しても、国が支援策を誠実に実行していくか、帰国者の人々が本当に日本に帰ってきてよかったといえるようになるのか、2世、3世の人々の精神的苦しみを含めて、まだまだ問題は残されています。協会は帰国者の人々とともに今後も交流と支援を続けることが大切です。
なお、当日、閉廷後、法案について弁護士団から詳しい報告がありました。
また、12月7日、13時から宣伝と県・市への要請行動が計画されています。
2007年 12月 2日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新生、八幡支部がニュース創刊

9月、30数年ぶりに再建された八幡支部は、早速、ニュース第1号を発行するなど活発な活動を展開しています。このニュースの要旨を紹介します。
◎八幡東区で「まつり起業祭」が行われました。八幡支部に「残留孤児」の人たちから餃子をバザーで出店したいので力になってほしいとの申し出がありました。ところが、今年は時間的な関係で出来ませんでしたので、「来年のために現地を見ておいたらどうですか」という実行委員会の話もあり、現地を帰国者の方6人を案内しました。途中、「世界の餃子」国際交流などの行事も行われており、餃子の試食などもして交流を行いました。
◎11月23日、「第46回県連定期大会」報告会と今後の活動計画の相談をするために会議を開きました。
◎来春、歓迎会を開催しようと考えています。この機会にお友達に入会をすすめて多くの新会員を迎えての会にしたいと思います。
◎「北京風雷京劇団」の公演日程が来年の11月1日と決まりました。 どう進めるかについては今からです。公演についてのさまざまな知恵をお寄せください。
◎「中国 悠久の旅」カレンダーは現在50部の普及をめざし33部が予約されています。 カレンダーの収益の一部は「孤児支援基金」に充てられます。
◎新会員さんの一言
●「歴史に学ぶことの大事さ、太平洋戦争の記録映画を観て感動しています。多くの人に観て頂きたい」
●「中国に一度は行ってみたい」
●「以前入会していました。いつか切れていました。今度新たに入会します。みなさんよろしくおねがいします」
2007年 12月 2日 中国残留邦人帰国者 京劇八幡支部 | Permalink
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人間味あふれる活動を進め、二千名の組織を目指す
日本中国友好協会福岡県連合会は11月8日、福岡日中文化センターで、中日友好協会代表団(団長・井頓泉常務福会長以下4名)を迎えて。第46回定期大会を58名の代議員が参加して開きました。
昼休みには、江蘇省立南京鉄道職業技術学院の学生7名と食事をしながら交流を深めました。
大会は新生・八幡支部から3名の代議員、大牟田準備支部から久方ぶりの参加、大川及び宗像糟屋地域での支部準備の具体化、若い専従事務局員の確保などの発言もあり、討議は最高に盛り上がりました。
大会は、この1年間の活動の総括、新年度の活発な運動方針、人事などを討議し、満場一致で承認しました。
また、大会は「人間味あふれる活動を進め、各層、各界の理解と協力を得て、県下すべての市区町村に協会の支部、班をつくり、当面、二千名の会員・日中友好新聞読者を擁する県連を目指して奮闘します」と更なる前進を誓い合いました。
大会後、会場を近くのホテルに移し、井団長から「中国の現状と日中友好」とのテーマで、40分間、スピーチを聞きました。
氏は中国が大きく発展していることを紹介すると共に、経済成長のもとで生じている諸問題を解決するために、「調和社会」をめざして政府は全力を尽くしていると報告しました。
また、日中友好と世界の平和のために、日中友好協会や諸団体と力をあわせて中日友好協会は頑張りたいと語りました。その後、台湾問題、日中友好に対しての姿勢などについて、時間を超過するほど質問がだされました。

歓迎パーティーは、中村淑子さん、横田雅紫津さんの琴の演奏でオープニング。武田正勝会長が歓迎挨拶。団長が代表団の紹介の後、永年、苦難に屈せず中国国民との友好のために運動を続けてきた協会に対しての感謝の言葉をのべ、「歴史を鏡とし、未来に生かして中日友好を広げましょう」と挨拶しました。
来賓の後藤富和弁護士、中国帰国者の会会長・木村琴江さんの挨拶を受けたあと、福岡日中文化センター村上陽三所長の乾杯の発声。
趙萍さんの胡弓演奏、太極拳、会員のどじょうすくい、炭坑節の総踊り、東京ー北京の合唱を豪華な?料理とアルコールをとりながら楽しみ、交流を深めました。

2007年 11月 21日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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8月15日、福岡市西区で、中国帰国者11人が参加して花や中国酒を墓にささげて、平和祈念をしました。この墓は市が土地を提供し、有志の賛助金で建立されました。
当日は、協会県連代表も参列しました。

2007年 8月 30日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新支援策の決定
・残留孤児政策の転換に思う
九州地区中国帰国者を支援する会代表
日中友好協会福岡支部理事
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名和田 澄子
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中国残留孤児国家賠償訴訟の九州6県の原告団役員会と弁護団は、7月5日に会議を開き政府・与党による新支援策の受け入れを決めました。各地の原告団も同様の会議を行い、その結果を持ち寄り、7月8日に全国原告団・弁護団として中国残留孤児新支援策の受け入れを決定し、訴訟の終結の方向性が見えてきたわけです。
おりしも7月18日福岡地裁での第14回口頭弁論の終了後、「あいれふ」で新支援策の説明会が行われました。そこで弁護団から強調されたように「今回の新支援策は日本政府が責任を認めたことで決定された。与党の資料には明確には国の責任とは言っていないが、国策として孤児の家族が中国に渡ったこと、帰国が大変遅れたこと、帰国後の支援策も十分な成果を挙げられなかったことを認めている。」 そこに、「今までの判決の内容も反映している。」と付け加え、新支援策が中国残留孤児の9割近くが原告となった裁判の力の成果であることを確認しあいました。この集会に参加した百人余の原告団の表情はいつになく明るく晴れやかで希望に満ちていました。
この支援策は骨子のみで、その全体性や細部にわたる内容、各個人に対して具体的な給付額などはまだ、明らかにされていません。しかし、福岡地区では9割の原告が生活保護を受給し、その枠内で窮屈な生活を強いられてきた、これまでの状況を大きく転換できるものであります。現在、この支援策を原告団が常々口にしていた「自由と人権を求めたい。普通の日本人として暮らしたい。」という願いに近づけていく為に、具体的要求を練り上げて今秋の国会での立法化に反映させようと運動を続けているところです。
まだ、闘い半ばですが、ここまで到達できたのは、何よりも当事者である原告団の力、弁護団の献身によります。当支援する会も世論を喚起する上では一定の働きを行いました。支援活動を行う中で、日本社会には、戦争を経験した世代を中心に中国残留孤児に対する深い関心と同情、共感が広範に存在することを知りました。福岡のマスメディアもこの問題を良く取り上げてくれ、世論形成に寄与しました。与党・プロジェクトチーム、有識者会議にもこの世論の力が影響を及ぼしていることでしょう。一区切りついたこの裁判ですが、ご協力いただいた会員の皆様に感謝すると共に、今後も引き続き残留孤児支援をお願いいたしたいと思います。
2007年 8月 8日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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母の霊を弔う旅 糸島 宗廣マツ

今年6月、姉妹三人で、中国東北に母の霊を弔う旅をしてきました。
ハルピンに着いた午後、731部隊跡地をたずねました。頂いた資料。勿忘(「忘れることができない」)には、ここには、元日本軍の細菌戦の中核だった731部隊があり、細菌戦犯石井四郎の統括のもとで、日本国内の医学専門家千人以上が集められ、中国人、外国人の抗日志士と平民を人体実験材料に三千人余りを虐殺したと書かれていました。
広い館内に展示された実験用の注射器、刑具の足かせ、細菌実験の注射をしている模型や写真など、それはすさまじく、人間が人間に対してここまで出来るのかと軍国主義教育への怒りの連続でした。

3日目、私達は、早朝3時間かけて目的の方正市に到着、市政府の協力で建立(1963年)された「方正地区日本人公墓」に参拝しました。
ここは、元開拓団員を含め4500人以上が命を落とした場所で、菊の花と線香をあげて供養し、目的地の母の亡くなった場所に向かいました。
その走行40分の間、私は、母が終戦時の死の逃避行、収容所の恐怖の中でいつも自分を犠牲にして私達を守り通し、また自分がいなくなった後でも「いつか3人を迎えに行って欲しい」と預け先を看護婦をしていた長姉に教え、2年半後私達は、無事姉に探し出され、残留孤児にならなかったことなど、母の優しさ、強さと心使いなど思い浮かべていました。
走行中姉が、声を弾ませ「ここへんだ」と車を止めました。私達は、62年目にして、やっと母への供養ができました。花を供え、熱い熱い感謝の念をこめた祈りを捧げました。
私は、今度の旅を通じて、平和と友好の尊さを考えさせられ、憲法9条を守り通す決意を新たにしました。
最後の19日は、天安門広場、故宮、万里の長城を観光し、6月20日、母と妹の眠る中国に複雑な思いを残しつつ帰国しました。
2007年 7月 10日 糸島支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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胡弓を聴き、中国文化を楽しみながら第4回理事会開く

5月の全国大会で優秀組織賞を獲得し、6年連続増勢を続けている福岡県連は、6月16日、胡弓奏者・劉福君さんの茶坊で 第4回理事会を開きました。


休憩時には中国茶をのみ、趙萍さんの胡弓を楽しむという、中国文化を満喫しながらの、「充実した」会議となりました。
会議では、この間の全国大会を成功させるための組織拡大、財政活動、糸島の中国人妻の会への援助、太極拳の県研修会などの活動について事務局から報告を受けました。
協議では、戦争をする国へ急速な動きや国交回復35週年・盧溝橋・南京事件70周年の節目の年の協会内外の情勢について討議を深めました。
今後の取り組みについては、南京・日本語学校への支援活動、筑後地区・武総領事との懇談、帰国者・中国人戦争被害者支援、憲法9条を守る運動、中国との交流、2千名県連組織つくり、中国とのかかわりを取り上げる様々な文化活動などの具体的活動について討議を行いました。
理事会終了後、永年、県連活動の先頭に立ってこられた金子正道、北川栄市両副会長の傘寿を祝う会を中華料理店で開きました。
2007年 6月 28日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 二胡 | Permalink
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メーデー会場で 残留孤児支援の訴え
5月1日、福岡市で行われたメーデーで、帰国者の会、協会福岡支部、支援する会の15名は共同で、孤児支援を訴えました。
当日、中国人強制連行事件裁判の最高裁判決に憤った女性がただ一人プラカードを持ってメーデーに参加していましたが、一緒に行進も行い、運動をひろげることについて語り合いました。

2007年 6月 5日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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傷つけられ踏みにじられ続けて
来た人生を償ってくれる支援策を
中国残留孤児福岡訴訟 原告陳述より
私は1陣の原告で、今年66歳の田中早苗です。私がこの陳述で特に強調したい点は、政府から何も援助のない状況で帰国した自費帰国者の受けた苦しみや葛藤についてです。
私の両親は、1934年に家族3人で満州に渡ったそうです。その後、長女、次男、三男、そして私が満州で生まれ、長男は1943年に、中学へ進学する為、日本に帰国しました。
両親と死に別れた日の事は、私は幼く又あまりにも恐ろしすぎる出来事だった為か、記憶していません。しかし当時11歳だった姉の話によると、父は満州国のウランホトに住んでいた民間人1500人ほどを引率して帰国の任務を負い、葛根廟の裏山でソ連軍の戦車に砲撃を受け、沢山の人々が殺されたそうです。その時両親と2番目の兄が亡くなりました。幸運にも姉と3番目の兄と私の3人は、血の海の中から生き残りました。姉の忍は11歳、兄の旭は7歳、私は4歳でした。食べられる物は何でも食べ、濁った水でも飲んで生き延び、3人とも日本人孤児となり、それぞれ善良な中国人に養われ成長しました。
私の養父の家はとても貧しい辺鄙な農村で、村には十数戸の家しかなく、小学校もありませんでした。9歳の時、養父は苦しい中、私を8kmも離れた学校へ通わせてくれました。当地の政府、学校、先生の援助で、小学校、中学校で学び、又、学費免除で二年間の中等専門学校で学び1961年9月、20歳の時電力学校を卒業して火力発電所に配属され働きました。1968年同じ工場の労働者と結婚して、2人の子供が生まれました。
私は日本人であった為に、結婚でも制約を受け、文化大革命の時、調査や取調べを受け、大変辛い思いをしました。当時私は内モンゴルの少数民族の地区に住んでいて、国交回復前には日本についての情報がなく、日本がどのような状況にあるか、全く知ることはできませんでした。
1972年、新聞を見て日本との国交回復を知りました。姉が厚生省の孤児対策室に連絡を取って、1976年に連絡の取れなかった上の兄を探し出せました。1978年上の兄の手助けのもと、1回目の肉親探しが実現できました。この時私と2人の子供は、初めて日本の国土に足を踏み入れ、美しい国土に感激しました。しかし、同時に大きな苦痛も感じました。それは「心の中で話したいことを、言葉で表現できない」という悔しさでした。感動しても、ただ涙で顔を濡らすだけでした。
2ヶ月の肉親探しは、あっという間に過ぎ、中国に帰りました。働いていた工場では多くの同僚や友人が会いに来て、「あなた達は、また帰ってきて何をするの?日本はいいところじゃない。」と多くの人は羨ましく祝福していました。しかしある一部の人は、いつも陰で「小日本はまた戻ってきた。」と非難しました。
肉親探しの後、永住帰国の説明や話は日本政府の人からは一切ありませんでしたが、1989年3月、姉の家族が同級生の援助の下で日本に帰国、永住しました。この事を知って私も非常に日本に帰国したいと思いました。ところが身元保証人を見つけなくてはいけないと言われ、日本の長男にお願いしましたが、なってもらえませんでした。姉は先に帰国したけれど、生活保護を受けていたのでなれませんでした。結局、保証人を見つけることができませんでした。長男は保証人になることを同意しませんでした。保証人になると、責任を負う必要があるからです。中国にいる弟や妹の3家族、1人でどうやって負担できるのでしょうか。1990年の2回目の一時帰国で親族訪問をした時、姉の知り合いの大阪市民会でボランティアをしている山田邦夫さんと知り合い、いろいろ援助してくださいました。私はこの時、帰国のルートを見つけたいと強く思っていました。15日間の滞在でしたが、この期間に私は福岡県庁の援護課に行き、私達一家が帰国できるように切実な心情をお願いしました。私と対応してくれた副課長は言いました。「あなた方のように、親族を見つけ出した孤児が帰国して定住しようとしたら、必ず親族が”身元引受人”とならなければならない・・・。」探して尋ねても、誰も身元引受人になってくれない状況でどのように帰国したらよいのでしょうか?絶望的になり、帰路大阪の山田さんに相談しました。支援を通して帰国を実現することができますかとお聞きすると、「孤児の問題は、国が責任を負うべきです。もしあなたがどうしても帰国したいのならば、一切の帰国費用を自分で負担しなければなりません。そのため、保証人の工場で働かなければなりません。」と言われました。誰でも国費で帰国したいのはヤマヤマです。しかし身元引受人に親族がなってくれなければ、国費で帰国できなかったのです。私は中国に帰り、家族と相談し、大阪市民会の支援を通して自費で帰国する決心をしました。
1991年末、保証人の工場から30万円旅費として借り、一家4人内モンゴルの包頭市から天津港を経由して神戸に上陸しました。税関に入ったら、私達が「中国のパスポート」をもっていたので、すぐに不法入国とみなされ、大阪の入国管理局で調査を受けました。私達の携帯した物品を差し押さえられました。「審査しなければなりません、大体4ヶ月かかります。この期間は勝手に居住地を離れてはいけません。」と言われました。日本人なのに難民扱いを受けることが、とても悔しく、又苦痛でした。二日目に工場の保証人が来て、携帯した物品を受け取って工場の居住地に着きました。一家4人は、狭い1DKの工場の寮に住むことになりました。私達一家は自費帰国の為、定着促進センターに入ることできず、国からは何の援助もありませんでした。帰国費用の借金返済の為、又日々の生活の為に、調査をうけている保障先である大阪市民会が紹介した工場で働きましたが、ただ工場と寮を往復する日々でした。日本語も話せず、自費帰国者には、勉強する場所も機会も何も与えられませんでした。審査が終わり、4ヵ月後の1992年3月24日に正式に永住帰国を認められました。
この時、家族皆で相談して、姉一家がいる福岡に定住したいと思い、又福岡県の援護課に行き、私達の状況を説明して、福岡に定住したいことを伝えました。応対した方は「あなた達の状況は、私達は調査を経て事実であることは分かります。とても同情いたします。福岡に来て定住してもいいです。しかしあなた達は生活保護を受けることはできないし、定着促進センター、自立研修センターで日本語を学ぶこともできません。住居、仕事、全て自分で解決しなければなりません。」と言われました。このような厳しい条件に対して、私達は家族で何度も話し合い、考慮してやはり福岡に定住することを決めました。大阪の工場で一生懸命に働き、食費も切りつめ、やっと借金を完済しました。
1992年4月、大阪から福岡に来て仕事を探し、夫婦2人で浄水器の工場で働きましたが、1ヶ月2人で働きやっと11~12万円の収入でした。これでは生活できずに、夫は友人の手助けで麺を作る食品工場の仕事を見つけました。仕事を始めて1週間は、姉が傍らにいて通訳にあたりやっと固定の仕事につけました。11年間働きました。私は縫製工場でアイロンをかける仕事をしたり、ペットを育てる工場で働いたり、4年間清掃の会社で働き、2000年清掃の会社は私を解雇しました。それ以後仕事をみつけられません。
日本に来てから、私達はとても多くの挫折に会いました。言葉が通じない、精神的、経済的なストレスなどの影響で、夫の体はだんだん悪くなり心臓病を患い動悸が激しく、癇癪を起こし、眠れなくなってしまい、しかたなく2005年7月、仕事を退職して中国に行って治療をしました。
清掃の会社を解雇された時、私はすでに60歳でしたが、やはりまだ日本語の勉強をしたいと思いました。それで娘に電話で定着促進センターに連絡してもらいました。センターの責任者に「あなた達は帰国してすでに5年を経過しています。又自費で帰国しました。無料でセンターを利用して勉強することはできません。更に皆帰国して10年経っています。日本語がまだできないのは、頭に問題があるのではないですか。」と言われました。日本語が話せず、交流もできず、社会の仕組みもよく分からないためにやはり勉強しなければ・・・と奮起して問い合わせたのに、このような残酷な返事を聞いて、本当に大きなショックを受けました。私は日本語を話すことはできませんが日本人です。国からの援助も支援もなく、日本語を学ぶ機会も時間もなく、国費帰国者より更に厳しい条件の中で生きてきました。私が自費帰国したのは、間違いだったのでしょうか。間違いはどこですか。
人生は本当に短いものです。私達の国家は、孤児達の一生の幸福を破壊し、生涯の尊厳を剥奪し、教育を受ける権利を遅延させました。
姉の田中忍、兄の田中旭も残留孤児訴訟の原告です。私が訴訟に参加したのは、日本政府は半世紀以上にわたって孤児達にこのような状況を強いた責任を認め、それに対する賠償を要求するためです。現在、日本政府は孤児達に対する新しい支援策を検討していると聞いていますが、孤児達を傷つけられ踏みにじられ続けて来た人生を償ってくれる支援策が出されること、心から希望しています。しかし、支援策はこれからの私たちの生活の保障であって、これまでの償いではありません。私は、日本政府が私たちに謝罪するまで裁判を続けるつもりです。
そして最後に、弁護士の先生方や支援者の方々は、孤児達のために尽くしてくださった苦労や努力や援助に対し心から感謝しています。
ありがとうございました。
2007年 6月 3日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新日本婦人の会小倉支部の三浦憲子さんから中国帰国者との交流会について投稿がありましたので紹介します。
昨年の「水餃子作りと交流会」で「来年は、ちらし寿司を作って、ひなまつりでお会いしましょう」との約束で早速「ひなまつりの集い」にご招待して交流会を開きました。
班で毎年作ってきた手作りのおひな様や、個人でお持ちのお雛様を会員それぞれが持ち寄り、赤い毛耗の床いっぱいに並びました。
中国帰国者の方4人も大喜び、中国でも風習はあるけれどひな飾りはなく、女性達が集まってお食事会をするそうです。
1年ぶりの再会にご挨拶をして、会員さん手作りのちらし寿司と持ち寄りの品々と総勢19人の賑やかな交流会となりました。
一番日本語の上手な原田さんにお話を伺いました。
72年に日中国交回復しましたが、このニュースを知ったのは7年後の79年だったそうです。原田さんがお住まいだった所は、電気もラジオもない所だったそうで、知る由もなかったそうです。
でも知らされなかった事自体が日本政府のだったのです。
日本の厚生省に帰国したいと4年間も手紙を出し続けやっと里帰りが実りましたが、親族から冷たくされ、寂しい思いをして中国にかえりました。
5年経ってやっぱり自分は日本人だから日本に帰りたいとの思いが募り知人に身元引受人になってもらい、やっと87年に永住帰国することができたそうです。
国家賠償訴訟の裁判では二度涙を流しましたとおっしゃいました。 「神戸の判決では喜びの涙、東京の判決では悔し涙でした。中国では日本人だといじめられ、日本に帰国してからは中国人だといじめられました。私達は日本人です。お金じゃないんです。皆なと同じように暮らしたい」と熱い思いを語って下さいました。
私たちも原田さんたちの悲惨な体験と政府の冷たさを改め知らされました。
福岡裁判では嬉しい判決がでるよう皆で応援することを約束しました。
言葉の不自由な中での交流会でしたが、日本に帰国して20年、こんな風に家に招かれ食事を頂くのは初めてとのこと。ちらし寿司も初めてで、とっても美味しかったと大変喜ばれました。
「今度は中国料理と日本料理を持ち寄りお会いしましょう」と盛り上がりました。
2007年 4月 9日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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日本に帰ってよかった、
といえるように
残留孤児問題の早期解決を求める街頭活動
中国残留孤児福岡訴訟の原告と弁護団に、協会福岡支部と「中国帰国者を支援する会」の7名も加わって総勢35名が、2月7日、福岡市の天神交差点付近で、「残留孤児問題」の早期解決を国に求める街頭活動を行いました。
原告、支援者たちの胸には、”わたしたち なにじんですか?” ”心から「日本に帰ってよかった」といえるように” というゼッケン。残留孤児のきびしい現状や支援を訴えるビラに、通行人の多くの方が足を止めます。「東京の裁判はヒドかったねー」「がんばってください」と署名に応じる人もいます。
署名の訴えに、こころよく応じてくれた女性と顔を見合わせたOさん、期せずして「あれー」「まー」双方の口から声が出ました。高校時代の旧友との何十年ぶりの偶然の再会でした。積もる話の中からOさんが大連、旧友は奉天(現瀋陽)からの引揚者だということも分かり、今後の協力を約束しました。
この日1時間の活動で、97名の方々が署名に応じ、5,133円募金協力がありました。(三)
2007年 2月 27日 福岡支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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新春のつどい
中国帰国者との交流会110名参加
日中友好協会福岡支部
立春の2月4日、日中友好新春のつどいが開かれ百十名の参加者でにぎわいました。
中国の春節もまじかとあって中国帰国者の人々、中国人留学生、中国語の先生など中国にゆかりの皆さんが半数を占め、地域の人々と楽しく交流できました。

福岡市内のどこの公共施設も百人を収容できる調理室は見当たらず、中村学園大学の施設や設備、そしてご厚意に助けられた集会でもありました。
午前中はその調理施設で約三千個の水餃子をつくり、参加者一同舌鼓を打ちました。
午後は場所を移し一般の教室でかくし芸大会です。佐々木ミヤ子さんの愉快な「どじょうすくい」に始まり、締めは炭坑節で盛り上がりました。中国帰国者の香椎浜グループも太極拳と扇を使ったカンフーを披露しました。中国残留孤児国家賠償請求訴訟福岡原告団の団長の木村琴江さんから1月30日の東京地裁の判決以降の全国的な情勢と支援のお願いも訴えられました。現在、残留孤児の救済が政治的解決の方向で動いており希望の持てる段階にきていることも報告されました。暖かな日差しの日に、このつどいの共催4団体である福岡県中国帰国者の会、九州地区中国帰国者を支援する会、日中友好協会福岡支部、福岡日中文化センターが交流でき絆を深めることができました。(名)
2007年 2月 27日 福岡支部 中国残留邦人帰国者 交流 | Permalink
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若い層の中にも支援の輪が
「九州帰国者を支援する会」総会を開く
九州地区中国帰国者を支援する会 第4回総会が11月26日、福岡市で開かれました。
全国各地で取り組まれてきた、残留日本人孤児国家賠償請求訴訟は、来春にかけて、重要な局面を迎えます。政府の責任を明確にさせた判決を、なんとしても勝ち取るために、九州においても運動を発展させる上で、今回の総会は大きな意義がありました。

当日は、長崎、大分、熊本と福岡県内から会員20名と来賓として帰国者の木村琴江原告団長、樺島敏雄、井上顕両弁護士が出席しました。
弁護団からは裁判の状況と今後の取り組みと展望について説明がありました。
事務局からはこの間の活動についての報告と役員体制や地方ごとの活動の強化について具体的な活動方針の提案を受けたあと、予定時間を越えるほど活発な討議がありました。
2006年 12月 10日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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法廷を埋め尽くす原告、支援者
中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論
裁判を終えての報告集会。馬奈木弁護士、田中弁護士が「国に悪いことしたと 認めさせるまで、力を合わせてがんばろう」と心に染みる熱いあいさつをしました。
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残留孤児福岡訴訟第9回弁論は、9月20日、福岡地裁で開かれ、原告の毛利憲治さん、田中弁護士が意見陳述をしました。
当日も、大法廷の傍聴席は原告と支援者でいっぱいとなりました。
3人の意見陳述の要旨を順次紹介します。
第9回弁論 意見陳述書 要旨 その1
原告 毛利憲治
私は大分の日田市に住んでいます。1943年9月17日に「満州国」黒龍江省の元宝村で生まれ、今年63歳です。終戦当時、まだ2歳にもなっていなかった為、周囲の状況は知りませんでしたが、父母は大分県の開拓団として中国に渡ったそうです。その後父は召集されフィリピンに送られ1945年に戦死しました。
日本の敗戦により、ソ連軍や中国の地方軍が開拓団の日本人を襲うようになり、中国に残された日本人は集団自殺したり、殴り殺されたり、銃殺されたり、餓死や病死したりと、本当に大勢の人が亡くなりました。私の母も苦しい状況の中で、6歳の姉と2歳にならない私を連れて、鉄道のレールの上で横になり、自殺をしようと汽車がくるのを待っていました。3時間待ちましたが汽車は来ませんでした。そのような時、鉄道局に勤務していた後に私の養父になる中国人が、片言の日本語で「ここで何をしているのか?」と尋ね、母は「自殺をしたい」と答えた為、自殺することを思いとどまるよう説得し、私達親子は救われました。
私が4歳の時に、姉が病死し、6歳の時母が病死し、私は孤児となりましたが、命を救ってくれた中国人が私の養父となり、実の子以上の愛情を持って私を育ててくれました。養父は知識と教養があり、大変優しく、私が虐められてはいけないと、後妻も娶りませんでした。愛情深く慈しんでくれた養父の恩は、永遠に忘れることはありません。しかし、養父の生活状況は裕福ではありませんでした。養父の負担を軽減する為、私は14歳で小学校を卒業すると、すぐ工場で働き始めました。働きながら工場の技術学校で2年間勉強し、その後、企業管理等の専門知識を学び、労働者、技術者、管理職等の仕事に就きました。
養父は私の為に何度も引越しをしたので、誰も私が日本人であることを知りませんでした。文化大革命の時、日本人の孤児が批判闘争されている光景をこの目で見ましたが、大変恐ろしい光景でした。日本のスパイ、階級の異分子、革命の隊伍にもぐり込んだ敵などと、様々なレッテルを貼った帽子をかぶせられて、無情な批判や暴力行為を受けているのです。優しい養父や妻子までも巻き添えにするのでは、と考えると身も震えるような恐怖を感じました。
1972年に日本と中国の外交関係が結ばれましたが、ほとんどの日本人孤児には、帰国の為の具体的な措置や方法、手段などの情報が伝わらず、皆どのようにしてよいのか分かりませんでした。もしこの時、日本政府がすぐに孤児を帰国させる手立てを講じていたら、孤児が遭遇した色々な状況も現状とは決定的にちがったはずです。多くの孤児が帰国するようになったのは、1980年頃からです。この10年の遅れは、孤児の直面する言葉の問題や仕事の問題を更に困難にさせ、本当に取り返しのつかない遅れにしてしまいました。もっと早く帰国できたら・・・と、多くの孤児は今でも悔しい思いでいます。
1978年、病床の養父から、はっきりと「お前は日本人の遺児で日本にはお前の身内がいる、機会があればお前の祖国に帰りなさい」と言い、手がかりをいくらか残してくれたことは、私にとって幸運なことでした。
1980年に日本の民間団体が残留孤児を探す活動を行っていることを職場の親友から教えられました。私は手紙を書いて養父が残してくれた手がかりを知らせ、1年余りの時間を経て、母親の違う姉を見つけることができました。私は、ただただ一刻も早く姉に会いたいと思うだけで、他の事は何も考えませんでした。
1982年11月、日本に一時帰国し姉に会い。40年経ってやっと故郷に帰りつくことができました。しかし、帰ってから私が15歳の時に死亡宣告されていて、戸籍が抹消され、墓石もあり、そこには私の名前が刻まれていました。国はどうしてこのような事をするのでしょうか。生きている人間に死亡を宣告し、死亡宣告さえすれば、私達を永遠に捨て去ることができるというのでしょうか。1983年4月に裁判所を通じて戸籍を回復しましたが、何をするにも外国人登録証を要求されました。日本政府は私達を日本人と認めていたのでしょうか?
1990年7月、一家4人(私と妻、二人の子供達)で帰国し、福岡県宇美の帰国者定着促進センターに入所しました。しかし20歳を越えていた長男の旅費は支給されず、定住する際も生活費も貰えませんでした。家族が離れ離れになる悲劇を二度と繰り返さないため、苦しい経済状況でしたが、自費で支払いました。
1990年11月姉のいる日田市に引越し、3ヶ月だけ生活保護を貰いその後仕事を自分で探し、必死に働きました。飲食関係の仕事に2年、車の部品を扱う会社に2年、青果会社に8年勤務し、2003年9月、満60歳で定年退職しました。
その後、息子が日田市で中華料理店を開業し、私達夫婦は、現在この息子の店を手伝いながら、食事させてもらっています。息子も4人家族で余裕がないので、お金は貰っていません。社会保険事務所に行って厚生年金を計算してもらいました。年金対象期間は137ヶ月で、もらえる年金は60歳から63歳までが毎年4万6千円、63歳から65歳までが毎年29万円、65歳以降は毎年48万円あまりです。これだけのお金でどうして生活できますか?これからどうやって生活していけばいいのでしょうか?帰国して3ヶ月だけ生活保護を受け、後は必死に努力して、働いてきました。それなのにこのような僅かな年金しか貰えないのです。日本政府は、このような私達残留孤児の経済状況をはたして知っているのでしょうか?聞くところによると、孤児の8割近くが生活保護を受け、少ない生活費で、僅かなお金を節約し、食事や日用品さえも削っています。養父母のお墓参りに中国に行くと生活費は差し引かれます。本当に優しい恩のある私の養父のお墓参りも、お金がないために、私は12年も行けないのです。良心がさいなまれ、心が痛みます。孤児は皆同じ気持ちです。
私達は、多くを望んでいるのではありません、普通の日本人の暮しがしたいのです。私達残留孤児が、日本国籍を失い、日本語が話すことができなくなった原因は、戦争にあり、戦争は国家が引き起こしたことです。日本国内に住んでいた日本国民とは違う多大な被害を受けているのです。勇気を持って、私達に生きる希望を与える判決を下してくださるようお願いいたします。
2006年 10月 1日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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会員を4倍化した
戸畑支部が盛大に歓迎会!

7月8日、戸畑支部は第55回全国大会報告を兼ねて新入会員の歓迎会を開きました。
戸畑支部は、昨年末から半年間で10名の会員が40名以上になり、県内では福岡、小倉に次いで3番目の会員を有する支部になりました。
岩佐秀樹県連理事長、原博道北九州協議会議長の挨拶のあと、須崎健一支部長が「新会員の皆さんのご入会を熱烈に歓迎します。楽しい行事を計画して会員を2倍、3倍にしてもっと大きな支部をつくるためにがんばりましょう」と挨拶し、10月から開講する中国語講座の成功、定期的な中国映画上映会、毎年1回の中国旅行を成功させるとともに、20名になった八幡地域での支部確立をすすめることなどを訴えました。

参加した会員全員が、中国旅行の感想や入会の動機や今後の抱負などを話しました。
中国から帰国した残留孤児の皆さんが、政府の冷たい仕打ちで大変苦労されていますが、戸畑に在住されている川口千尋さんと中川蘭子さんは中国残留孤児国賠償訴訟の原告として闘っています。
溝口史子弁護士から残留孤児のおかれている困難な現状や訴訟支援のための訴えがされ、西村儀一事務局長から緊急の支援募金が呼びかけられ、2万2千余円が寄せられました。
和やかな懇談のあと、小倉支部の深谷節子さんの中国の歌2曲が披露され、さわやかな歌声に皆さんが感動しました。(健)
2006年 8月 4日 戸畑支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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武亜明総領事のあたたかい心に感動の涙
中国建設に貢献した5・8会のつどいに50名参加

5月8・9日の2日間、58会(1958年の中国帰国者で、九州を中心にした人達の集まり)の集いが、福岡市の海の中道ホテルでおこなわれました。 遠くは秋田県、千葉県からも参加し、総勢50名で盛会となりました。 終戦の混乱の時期、人民解放軍に遭遇し、その一員として、また看護婦として活躍した人や炭鉱、工場などで解放戦争を支援し、建国後の経済建設に貢献するなどさまざまな役割を果たしてきた人達で、思い出話は尽きないものでした。
今回の集いで特筆すべきことは、武亜明中国駐福岡総領事が参加され、出席者の終戦当時の活躍を評価し、心温まる感謝の意を表された事でした。 沢山の参加者が、帰国後はじめて「中国要人の評価と謝辞の言葉を聞き、感動し心温まるものを感じ、涙が出た」と感想を述べていました。 また「みんなの先頭にたって、中国の秧歌(ヤンガ)を踊る総領事の打ち解けた姿をみて、踊りながら目頭が熱くなった」「日中友好への思いが一層強くなった」などの感想が多く寄せられました。
日中関係は「靖国参拝」などで不安の空気が漂っていますが、日中両国民の努力で必ず打ち払われるという確信を強めた二日間でした。
なお、この集いの世話人として、日中友好協会福岡県連合会各支部の会員である宗弘有蔵、西村儀一、田原計、小林俊子、深谷節子の各氏が領事館との打ち合わせや準備から当日の運営まで力を尽くされました。
2006年 5月 28日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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「初恋のきた道」を鑑賞
北九州協議会
北九州協議会では、4月15日、「中国映画を観る夕べ」と銘打って、「初恋のきた道」を鑑賞しました。総勢31人が参加。用意した学習室がほぼ満席となりました。
「英雄(HERO)」「SAYURI」で国際女優の座にのぼったチャン・イイー19歳のデビュー作とあって、場内は切なさに胸ふるえる清冽な感動につつまれました。
一度観たことのある人も「何度観てもいい映画だね~」、また、中国の残留孤児の夫婦も「すばらしかった」と目を真っ赤にしていました。
できれば、毎月1度、せめて2ヶ月に1度は中国映画を観る会をやろうということで、次回は、6月17日(土曜日)午後6時から、同じ会場で「山の郵便配達」の鑑賞会を行うことになりました。事務局では、今回参加した人を中心に、より大きな輪を広げていこうと張り切っています。 (エ)
2006年 5月 7日 北九州協議会 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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集会参加者に訴えて 残留孤児署名475筆
原告団と協会福岡支部
3月26日、福岡市で「許すな!庶民大増税・憲法9条改悪」を掲げて6600人が参加して県民集会が開かれました。
この集会に福岡支部9名と孤児裁判(残留孤児国家賠償訴訟)福岡訴訟原告団6名が参加して、全国の原告団の半数を抱え、5月に地裁結審を迎える「東京訴訟の公正裁判を求める署名」を集会参加者に訴えて475筆を集めました。
今後、協会は帰国者との統一行動や交流を深めていくことにしています。
2006年 3月 29日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中日友好楼に募金5万円
田川支部
田川支部が、昨年12月に開いた、日中友好コンサートは第4回目を数え、200名近い市民が押し寄せ、すっかり支部恒例の行事となりました。
この益金の中から、5万円の支援金を残留日本人孤児たちの養父母が生活している中国吉林省・長春市の「中日友好楼」におくるために、このほど協会本部に届けました。
2006年 3月 29日 田川支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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武亜朋総領事と協会福岡県連役員懇談

福岡県連は、3月15日、北川栄市副会長と岩佐英樹、松山盛利、三好正明の3役員が中国駐福岡総領事館を訪れ、武総領事と懇談しました。
この中で、領事館の活動の一端について説明を受け、「お役所」仕事でなく、人道的立場で忍耐強く業務にあたっているいくつかの話を聞いて深い感動を受けました。
また、県連主催の「学習懇談会」での講師依頼及び、会員から要請のあった「58会」(戦後、中国に残留し中国の新しい国造りに貢献してきた人々のグループ)の集まりでのあいさつについても、総領事にお願いし、快諾を得ました。
中国での日本語教室(学校)つくりについても、総領事の意見を聞きました。
なお、学習懇談会については、5月下旬以降開くことで、内容などについては検討することにしました。
2006年 3月 19日 福岡県連合会 中国残留邦人帰国者 日本語学校 | Permalink
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新聞も大きく報道 帰国者弁論大会
協会福岡県連が帰国者支援の会、帰国者の会と共催で
第二回の弁論大会は、3月5日、日中友好協会福岡県連、帰国者支援の会、帰国者の会の3団体の共催で、福岡市で開かれました。
福岡支部、小倉支部の30名の会員を含めて、帰国者、市民など60名が参加しました。帰国者の涙ながらの訴えは胸に迫るものがありました。
県連からは、北川栄市副会長があいさつ。侵略戦争の犠牲者である孤児たちの支援のために、協会は一層奮闘することを約束しました。

2006年 3月 11日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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帰国者の弁論を聞いて衝撃
26才の女性・YSさんからメールが、実名で寄せられました。その全文を紹介します。
「私は、現在26歳です。勿論戦争の事は、学生の頃、原爆資料を見たくらいで、実際に起きた事はほとんど知りません。
最近、NHKで放映された「大地の子」を見ました。その時、これは本当にあったことなのか・・と、とても驚きました。
同時に何も知らずにぬくぬくと生きてきた自分が恥ずかしくなりました。
今日の帰国者の弁論を聞いて、改めて衝撃を受けました。彼らがどの様な生活を虐げられてきたか、想像を絶します。過去を知ることで、私にもこれから何か出来る事があるのではないかと思います。
今後、またこの様な機会があれば、是非参加したいと思いますので宜しくお願いします。
2006年 3月 11日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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日本の侵略戦争で
両国人民は共通に被害者
強制連行・労働事件 市民集会
2月18日、福岡市民会館において、「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟を勝利させる為の市民集会」が200人を超える参加者で開催されました。
主催は、支援団体「中国人戦争被害者の要求を支える福岡の会」「中国人・強制連行事件福岡裁判を進める会」と「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟弁護団」ですが、日中友好協会福岡県連と各支部の全面的バックアップが集会成功の大きな力となりました。
浅井基文さんの講演「中国関係の過去・現在・未来」では、1972年の日中共同声明から問題をときおこし、台湾問題や日米安保が「日本流の解釈でごまかされた」こと。そのうえ、今日、アメリカの世界戦略(先制攻撃)に日本政府は急速に歩調を合わせ、日本国民はきわめて、危険な状況に追い込まれつつあると警告しました。
戦後補償問題を考える視点として日中戦争・太平洋戦争が『日本の侵略戦争であった』という原点を日本国民の間に明確にする。そのうえで、日中両国民共通に『日本の戦争政策の被害受忍の義務はない』との視点が大切だ、と語りました。
集会は、その後、後藤富和、渡辺昌子両若手弁護士の訴え、「支える会」の石川捷治世話人、「進める会」の中村元気世話人の決意表明、松岡肇弁護団事務局長の経過報告、木村琴江「残留孤児の要求を支える会」会長の訴えがありました。
また、協会久留米筑後支部の会員である、高尾翠さんと著書「天皇の軍隊と平頂山事件」が参加者に紹介され、用意した全ての書籍が売り切れました。(岩)
高尾翠著 「天皇の軍隊と平頂山事件」
新日本出版社 ; ISBN: 4406032231
2005年11月 単行本 173ページ
→ 購入の案内はこちら
福岡県連でも取り扱っております。
お問い合わせは、日本中国友好協会 福岡県連合会、各支部へ。
2006年 2月 25日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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市民集会・帰国者弁論大会
成功のために 各団体を訪問
中国人強制連行・強制労働裁判は、3月29日が判決です。多くの市民に事の事実、真実を知ってもらうため、2月18日、浅井基文・元外務省中国課長を講師に迎えて開く市民集会をもちます。会場の福岡市民会館小ホールいっぱいの参加者で埋め尽くすことができれば、少なからぬ反響を呼びます。 (→ 浅井基文さんの2月18日の講演の案内はこちら)
そのために、現在、「中国人戦争被害者の要求を支える会」「中国人・強制連行事件福岡裁判を進める会」「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟弁護団」の三者が協力して県下一円に働きかけを強化しています。
「支える会」と日中友好協会福岡県連合会は1月30、31日の両日、石村義治・支える会代表、岩佐英樹・県連理事長をはじめ11名が組をつくって、16の団体、労組、政党などを訪ね協力要請をしてきました。
また、要請行動では佐々木ミヤ子・中国帰国者を支援する会事務局員も参加し、3月5日の中国帰国者日本語弁論大会に参加について協力要請を行ないました。 (→ 中国帰国者日本語弁論大会の案内はこちら)
2006年 2月 11日 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国残留日本人孤児支援で市と交渉
北九州・支援する会
1月11日、北九州市に医療通訳など、帰国者の生活環境を整えるために、帰国者・支援する会・弁護団20名が要請交渉を行いました。
市側は「生活保護の対応は高圧的にならぬよう配慮する」などの回答をしました。
2006年 1月 28日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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中国帰国者はどんな思いを持っているのでしょう
聞いてみませんか
第2回


◆日時 3月5日(日)午後1時半
◆場所 「あいれふ」 9階大会議室
福岡市中央区舞鶴2−5−1 (電話 092-712-2662)
◆発表者 中国帰国者 2世3世の人も参加
主 催 |
福岡県中国帰国者の会 九州地区中国帰国者を支援する会 日中友好協会福岡県連合会 |
後 援 |
弁護団・福岡県・福岡市・新聞各社 |
2006年 1月 23日 イベント・講演 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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人間らしく暮らしたい
中国残留孤児の方々が訴え
12月8日は日本が太平洋戦争を開始した日です。ちょうど昨年のこの日に福岡地裁に中国残留孤児の人々が「普通の日本人として人間らしくくらしたい」と日本政府を相手取って国家賠償請求訴訟をしました。
その一周年を記念して福岡市の中心部5ヶ所で統一宣伝行動をおこないました。当日は原告の帰国者、弁護団、支援者、合計88名が参加、チラシ4000枚を配り、署名160筆をしてもらいました。
寒波到来の師走の町でしたが、残留孤児と同世代の年配の人が足を止め、柿をいただいたり、募金箱は置いていないのに一万円も寄付をいただいたり、通行中のバスの窓を開けて宣伝のマイクを聴こうとされたり様々な反応がありました。
また、福岡県や福岡市にも中国帰国者の為の医療通訳等を求める要請に行きました。その後、中央市民センターで交流会を開き、当日の宣伝活動の経験交流をおこないました。
マスコミからも多くの取材を受け新聞報道などもおこなわれました。人の目につく行動をもっとおこない世論を作り上げていく必要性を感じた一日でした。(名)
2005年 12月 24日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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10月16日、終戦60周年、日中友好協会創立55周年、中華人民共和国建国56周年を記念して、福岡県連合会主催の祝賀会が福岡市内のホテル開かれました。
会には、中国駐福岡総領事館の武亜朋総領事、李憲章 福岡華僑総会会長、強制連行裁判弁護団、九州残留孤児会長、県労連、政党(みらい福岡、公明党、日本共産党)、前進座、日本コリア協会、日本ベトナム協会、福岡北京同郷協会、内モンゴルの歌手サランマンドホさん、福岡日中文化センターの村上陽三所長・中国語講師団、日本中国友好協会会員など80名が参加しました。
麻生渡福岡県知事、山崎広太郎福岡市長、社民・市政クラブ福岡市議団からもメッセージが寄せられました。
アトラクションでは、深谷節子さんの麗しの歌声、優雅な太極挙、サランさんの熱唱なども披露されました。





2005年 10月 29日 福岡県連合会 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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抗日戦争・世界反フアシズム戦争勝利60年座談会
中国総領事館主催・協会福岡県連などから総勢35名が参加
8月13日中国駐福岡総領事館
中国では、中国人民抗日戦争・世界反フアシズム戦争勝利60年の今年を記念して、国家的行事が相次いで行なわれています。
福岡でも8月13日、座談会が開かれました。
はじめに、武亜朋総領事が挨拶し、この記念行事が「歴史を顧みて、抗日戦争で経験した民族精神を高揚させ、世界平和の発展のために貢献するため」に開かれていることをのべました。
つづいて、抗日戦争とファシズム戦争の歴史認識ついて触れ「戦争の本質をはっきりつかみ、犯した過ちを認めることが大切だと」語りました。
靖国参拝問題について、「戦争を引き起こしたA級戦犯を祭るところに総理や官房長官が参拝することを中国国民はけっして受け入れられない」と毅然として語りました。
最後に、「中国は日本の友人と手を携えて、中日友好のために、歴史の教訓、経験を生かし、今後も一層がんばっていきます」と平和に向けての決意を語り、「今日は自由に語り、発言してください」と開会の話を結びました。
この武総領事の挨拶に応えて、最初に松山盛利県連事務局長が発言を求め、記念すべき座談会に招待されたことについての謝意を表し、つづいて、55年間、困難な中でも中国国民を信頼し、友好・平和と相互理解を深めるために様々な運動を行ってきた、日中友好協会の活動を紹介しました.。そして、当日、出席した、「八路軍に参加した人、中国強制連行事件、残留日本人孤児の支援、中国語講座運営などで、日夜奮闘しいてる6名の会員の話を聞いて欲しい」と発言しました.。
福岡支部副支部長で戦争を知らない世代の弁護士の後藤富和さんは「日中間の清算をきちっとすることは、今後の日中友好のために大切です。それがなければ又、戦争を起こすと思います。9条が改正されようとしています。自由に戦争ができるようにするためです。私は強制連行・労働裁判の弁護士ですが、裁判は全国で負けています。しかし、強制連行・労働の事実はどこも認めています。ところが、政府は何も言わない。今こそ、過去を問いただす時です。日中韓、三国が手を取り合えば必ず大きな力になります。しかし、日本はアメリカばかりに目を向けている。こんな状況を改めさせ、日中友好を発展させることが大事だと思います」と語りました。
3歳で大連に父母とともに渡り、小学校3年生のときに敗戦を迎え、18歳で帰国した深谷節子さんは、「弟妹は33年間、中国の養父母に育てられました。感謝の気持ちでいっぱいです。20年間、私は、学校で子どもたちに話をしています。戦争が日本にもたらした不幸を2度とさせてはなりません。ところが、国は被告であるが反省はしてはいません。今、私は日中友好協会の会員として学ばされています。人生大学のようなものです。2度と過ちを繰り返させてはなりません。私は1人の国民として、母親として行動を今後も続けていきたいと思います。戦争の悲惨さを語っていくことが大事だと思います」と戦争体験者としての思いを語りました。
また、華僑総会の人は「母親は纏足(てんそく)でした。シナ人、チャンコロと石を投げられたこともあります。しかし、ほとんどの周りの人は善良な人でした。オ偉い人のために、国民はひきづられ、みんなだまされた。誰が戦争の責任を取ったか。教科書問題、日本のマスコミも右翼にマイクを渡すようなことをしています。中国は私の母であり、命です。日本は正しい教育をすべきです」と今日の日本を憂えていました。
また、別の華僑の人も「教科書には戦争がいつあったかさえ載っていない。大学生さえ戦争を知らない。戦争は市民を苦しめるもの。平和のために日中両国民は仲良くしよう」と日中友好の大切さを訴えました。
中華料理店の経営者で、シャンソン歌手でもある女性の人は「父は、大牟田の炭鉱に連れてこられました。3年前に亡くなり、荼毘(だび)にふした時、銃弾が腰の付近から出てきました。私は4人の子どもたちにも、唄うときも、政治のことを敢えて話します。私が歩んで来た道や中国人であることを~」と凛とした中国人の誇りが伝わってきました。
九州平和友好会の会員から「八路軍の規律はすばらしかった。今の日本は戦争への清算はしていない。国民は昔のごとく洗脳されたままです」「中国の子どもたちのために、毎年30万円援助を続けている。日中友好は大切」などと発言がありました.。
また、新聞社の元北京特派員の人は「小泉首相の批判をするといやがる人がいる。日中友好は50年、100年単位で取り組む必要がある。それは、人を育てることです。政府や行政が留学生を相互に交換し、お互いに勉強していくとが大事です。交渉だけではダメです」と日中友好の今後のあり方について発言をしました。
活発な発言が続きましたが、最後に武総領事が「みなさんの発言を聞いて感激しました。大変、見識が高く誠実で、他に見られない良い座談会であつたと思います。日中両国はどんなことがあつても、仲良くしていく、そうしなければ互いにマイナスになります。手を携えてがんばっていきましょう」と閉会の言葉を述べました。
2005年 8月 21日 福岡県連合会 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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役員は大幅増、専門部も設置
中国に日本語学校設立も準備
福岡支部が第39回定期大会開催
福岡支部は、吉林省民族楽団公演を大成功させ大いに盛りあがる中で、7月10日、第39回定期大会を開きました。
ここ5年の間、中国国民との交流が大きく広がり、支部や福岡日中文化センターの様々な講座やサークルは活気を見せています。
また、戦争被害者である帰国者や中国人強制連行者の支援活動も進んでいます。一方、今の日本と中国の情勢を反映して、日中友好協会に対する期待と関心は高まり、事務局の仕事量が大幅に増えています。
こうした中で大会は、ひとりでも多くの会員の協力を得て運動を進めるために、交流・旅行部、学習部、文化部などを作ることや役員も23名から31名に大幅に増やすことにしました。また、「日本語学校」と「茶館」の設立などの計画を進めていくことにしました。
大会では、24名の人から報告や発言がありました。
大会終了後、会員から寄贈された「宏介ちゃんプロジェクター」「正勝ちゃん暗幕」の披露も兼ねて映写会と懇親会を楽しく行ないました.。(M)

2005年 7月 23日 福岡支部 中国人強制連行・強制労働事件 中国残留邦人帰国者 日本語学校 | Permalink
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帰国してからの鬱積した気持ちが晴れた
帰国者の方との交歓会 日中友好協会小倉支部

小倉支部は残留孤児の帰国者の方との交歓会を7月2日に開催し、北九州市立生涯学習センターに38人がつどいました。

支援する会」との初めての共同の取り組みということで、どうなることかとの危惧もありましたが、みんなで一緒に餃子を作り、食べて、語って、歌った4時間は、大変充実したものとなりました。

協会からの自己紹介では、日本共産党の北九州市議会議員の参加者3人を代表して原博道副会長、県会議員の高瀬菜穂子さん、青年代表の村上一法さん、支援する会との窓口の深谷節子さんらが、帰国者の方が大変な苦労のなかで日本に帰国したことをねぎらうとともに、日中不再戦の願いを踏みにじる憲法改悪や靖国問題への怒りを、自らの中国からの引き揚げの体験も交えて語られました。

帰国者の方からは、「これまでこれほど楽しい催しはなかった」「帰国してからの鬱積した気持ちが話を聞いて少し晴れた」などの感想が出され、今後も交流していこうという思いを強くしました。 (訓)
2005年 7月 16日 小倉支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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小倉支部第14回総会が、6月11日、北九州市立生涯学習総合センターで開かれました。
原博道副支部長の開会のあいさつで始まり、県連からは一番ヶ瀬宗幸理事長が出席しました。来賓の三輪俊和さん(北九州市立大学教授)は、「今日入会するので、来賓としてというより、一会員としてあいさつします」と述べたうえで、北九州市における平和運動のなかで、かつての侵略戦争の実相のうえにたって、「戦争展」などで不再戦、平和の運動をねばり強く続けている支部の役割の大きいことを高く評価しました。
討論では、中国語講座・太極拳講座や中国旅行など市民の中国への関心と要求にこたえる活動をさらに充実させていくこと、中国帰国者との連帯強化のため早急に「餃子の会」を開くなどして交流を深めること、「孤児」訴訟を支援する会に積極的に参加していくことなど活発な意見が出ました。
仕事のため参加できなかった青年2人からは文書発言が出され、出席者に感銘を与えました。
組織拡大については、右翼の妨害で延期のやむなきに至った第54回全国大会を成功させるためにも、全回比15%増の目標達成の取り組みを確認し、新しい役員を選出して閉会しました。
2005年 6月 26日 小倉支部 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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