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帰国者墓前で平和祈願祭   中国帰国者九州連合会

帰国者墓前で平和祈願祭   中国帰国者九州連合会

永遠の友好願い 献花と黙とう

帰国者墓前で平和祈願祭   中国帰国者九州連合会

 8月15日猛暑の中、福岡市西区西部霊園の墓前で中国帰国者九州連合会による平和祈願祭が開催され、福岡県内や熊本県から帰国者30人が参加しました。

 協会福岡支部から当時久保副支部長・大井理事長が参加。
 木村琴江会長のあいさつに続き「第71回終戦記念日平和宣言」が中国語で宣言され、会場には日本語翻訳文が配布されました。

 木村会長は「終戦後の中国で私たちは日本の鬼子と差別されました。帰国しても日本語が話せず『日本に何しに来た中国に帰れ』と言われ、自分自身が中国人か日本人かさえ分からなくなりました」
 「国交がなく帰国が遅れ、日本の義務教育も職業訓練も受けられませんでした。現在は貧しい生活で過ごしています。政府に戦争が残した悪の解決を強く要求します。日本と中国の友好が永遠に続きますように、戦争がおこらないように平和を祈ります」と力強く訴えました。
 亡くなられた方々を偲んで献花と黙とうをささげました。

 

2016年 10月 8日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

18人の中国残留孤児による「血涙史」  『戦後七十年回憶録』 出版  ~新聞報道に大きな反響

18人の中国残留孤児による「血涙史」  『戦後七十年回憶録』 日本語翻訳付版(B5 188P) を出版 定価1,000円(税別)で発売中!

新聞報道に大きな反響・電話注文が次々に

 戦後70年にあたる昨年9月、中国帰国者九州連合会が、18人の会員の“壮絶な体験記”をまとめ、中国語の“戦後七十年回憶録”を発行しました。

18人の中国残留孤児による「血涙史」  『戦後七十年回憶録』 日本語翻訳付版(B5 188P) を出版 定価1,000円(税別)で発売中!

 これを知った会員からの「ぜひ日本語翻訳版を出してほしい」との要望に応えて、協会県連は、中国語を学んでいる会員の協力を得て、全篇を翻訳しあげ、「中国語原文付きの日本語翻訳版」を昨年末に出版に漕ぎつけて、12月25日報道関係に発表しました。
 発表の翌日から「新聞を見たけれど…」と言う電話での注文が、県外も含めて次つぎにかかって来て、「自分も引き揚げ者だ。帰国者のために何らかの協力をしたい」など、電話での注文だけで既に100冊を超えて、 事務局では反響の大きさに驚くやら、喜ぶやら…。
   

18人の中国残留孤児による「血涙史」  『戦後七十年回憶録』 日本語翻訳付版(B5 188P) を出版 定価1,000円(税別)で発売中!

 

毎日新聞2016年1月7日 地方版
      戦後七十年回憶録   日本語訳出版
      「平和で安心な世の中に」 元中国残留孤児の手記まとめ /福岡

 

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日本語翻訳付版(B5 188P)

1冊1000円+消費税です。
遠方の方の郵送料は82円です。

問い合わせ:日本中国友好協会福岡県連合会
           電話/FAX 092-761-0604
           nc.fukuoka@gol.com

2016年 1月 17日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

 『望郷の鐘』  戦後70年 ぜひ観てほしい映画です  福岡県内各地で上映 

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<上映日程>

福津市 中央公民館大ホール
      11月21日(土) ①11時 ②14時

宗像市 河東コミセン多目的ホール
      11月22日(日) ①11時 ②14時

筑紫野市 生涯学習センター
      11月20日(金) ①14時30分 ②19時

久留米市 えーるピア
      2016年3月1日(金) 時間未定

◎その他、県内各地で準備中


(これまでの上映)
7月11日(土) 福岡 コミセンわじろ 
7月18日(土) 福岡・中央市民センター 
7月21日(火) 福岡 早良市民センター 
8月30日(日) 田川 青少年文化ホール 
9月11日(金) 戸畑区 ウェル戸畑 
7月10日(金) 北九州ムーブ大ホール 
9月12日(土) 八幡西区 黒崎子どもの館 
8月23日(日) 春日市・クローバーホール 
9月5日(土) 飯塚市 コミニティセンター 
8月8日(土) 八女市 おりなす八女 
8月28日(金) 大牟田市 大牟田文化会館 



 
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映画 『望郷の鐘』 ホームページはこちら。

  ダイジェスト動画


 みずからも満州で過酷な体験をしながら、生涯を残留孤児たちの肉親さがしに捧げ、献身的な愛で支えた山本慈昭。 その生涯をたどった物語。

 

2015年 10月 26日 イベント, 中国帰国者, 中国残留孤児, 交流 | | コメント (0) | トラックバック (0)

人生に友好の歴史あり④  養父母の愛 中国で教師に  ~「祖国は二つ」友好は生涯の願い~  川添緋沙子さん

養父母の愛 中国で教師

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「祖国は二つ」友好は生涯の願い

川添緋沙子さん 福岡(七十九歳)

 「私の祖国は二つ、戦後七十年の今、心から友好を願っています」
 九歳の時、戦後の逃避行で父母は他界。 旧満州ハルピンで残留孤児になった川添さんは養父に助けられ九死に一生を得ます。
 養父母の愛情を受けながら必死で中国語を覚え、師範学校を首席で卒業。 小・中・高の教師を務め、四十七歳で帰国。
 日本語を習得し帰国者支援に生涯をかける生き方には「友好平和」を願う強い信念があります。


家族五人で逃避行、両親は
収容所で死亡、残留孤児に

 川添さんの故郷は佐賀県唐津市北波多町。
 郵便局員の父は転勤で旧満州の延吉市に、そこで出生します。

 昭和二十年八月、父は郵便配達中にソ連の空爆に遭遇。
 当時九歳(小三)の川添さん、二人の妹と両親、一家五人の逃避行が始まります。
 草や木の根を生のまま食べ、夜は木の下で寝ました。
 ソ連軍に遭遇し牡丹江の収容所に、母はそこで出産し死亡。
 赤ちゃん(妹)は中国人に引き取られます。
 その後移されたハルピンの収容所で父も息を引き取りました。

餓死寸前、養父に救わ
れ九死に一生を得る

 飢えと寒さで餓死寸前、亡くなった父親を立って見送ることもできませんでした。
 その日の夜、「まだ生きている」と中国人五・六人が探しに来てくれました。
 父が亡くなる直前、中国の友人に川添さんたち姉妹のことを頼んでくれていたのです。
 妹も他の中国人に引き取られて行きました。

「言葉の壁だけでなく
人生の壁も乗り越えな
ければ」

 養父は仕事でハルピンに単身赴任で来ていました。
 男手ひとつで川添さんを育て「早く元気になって学校に行きなさい」と励ましました。
 「これから中国人と暮らす、言葉の壁を乗り越えなければ」と必死で中国語を覚えます。

 養父は「お前の命を救ったのは、老後の面倒を見てもらうためではない。 社会に役立つ、立派な人間になってほしいからだ」と励まします。
 養父も若いころ日本人に助けられた経験がありました。

 新中国誕生の年、十三歳の川添さんは試験を受け、国語・算数とも百点で夜間学校に入学。
 その後養父の仕事で故郷に帰り山東省立師範学校に入学。
 卒業後、小学校・中学校・高校の教師を務めます。

四十七歳で帰国、協会
と出会い帰国者支援運
動に全力

 「『戦死者』として戸籍が抹消されパスポートが取れない上、身元保証人の問題もあり、なかなか帰国できませんでした。 帰国してからは日本語ができず壁にぶつかりました。 必死で日本語を覚え、家族や生活のことで支援してくれたのが日中友好協会です」と語る川添さん。
 帰国者の会事務局長として活動する姿には、「二つの祖国の平和友好」を願う信念が満ち溢れています。

 

2015年 9月 1日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

 『望郷の鐘』  戦後70年 ぜひ観てほしい映画です  福岡県内各地で上映 

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福岡 コミセンわじろ

 7月11日(土)①14時30分②18時30分

福岡・中央市民センター

 7月18日(土)①11時 ②14時

福岡 早良市民センター

 7月21日(火)①14時30分②18時30分

田川 青少年文化ホール

 8月30日(日)①10時②14時③18時

戸畑区 ウェル戸畑 

 9月11日(金)14時30分

北九州ムーブ大ホール

 7月10日(金)①11時②14時

八幡西区 黒崎子どもの館

 9月12日(土) ①14時30分②18時
春日市・クローバーホール

 8月23日(日)①10時30分②14時

飯塚市 コミニティセンター

 9月5日(土) 時間未定

八女市 おりなす八女

 8月8日(土)①14時②18時30分

大牟田市 大牟田文化会館

 8月28日(金)①14時30分②19時

福津 福津市中央公民館

 11月21日(土) 未定

宗像市 河東コミセン

 11月21日(土) 未定

◎その他県内各地で準備中
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映画 『望郷の鐘』 ホームページはこちら。

  ダイジェスト動画


 みずからも満州で過酷な体験をしながら、生涯を残留孤児たちの肉親さがしに捧げ、献身的な愛で支えた山本慈昭。 その生涯をたどった物語。

 

2015年 7月 2日 イベント, 中国帰国者, 中国残留孤児, 交流 | | コメント (0) | トラックバック (0)

人間の尊厳を守って欲しい!! 帰国者2世、弁護士、協会県連が対策

人間の尊厳を     
      守って欲しい!!


帰国者2世、弁護士、協会県連が対策

 中国帰国者2世の会、弁護士、協会福岡県連の3者による「中国残留邦人帰国者2世の問題」の話し合いが1月13日、県連事務所で開かれました。

尊厳を守って欲しい!! 帰国者2世、弁護士、協会県連が対策

 この日は、2世の会木村友和会長をはじめ4人、帰国者の会の木村琴江会長、川添緋砂子事務局長、協会福岡支部長の後藤富和弁護士、中原昌孝弁護士ら4人の弁護士、帰国者1世を長年支援してきた名和田澄子さん、協定県連の松山盛利副会長ら4人が参加しました。

 帰国者2世から現状がこもごも語られました。

「私は20年前、47歳の時に帰国した。17年働き、わずかだが年金をもらっている。生活できなくて5年前から生活保護を受けている。4年前に中国の養父母に会いに行った。飛行機代は年金をためて購入したのに生活保護費から削られた。その間、生活がとても厳しかった。生活保護では海外旅行は認めていないと言われた」

「中国の養父母のお見舞いに行くとか墓参する場合に、中国は広いから、生活保護での渡航期間を2週間しか認めないのは現実的でない。せめて支援法で認められているように2カ月は欲しい」

「病院に行って通訳がいないのは大変困った。先生に病状が分かってもらえたのか不安だし、先生の言っていることが理解できないことが多い。通訳をお願いするのは予約しないとだめで日にちがかかり、間に合わない」

「生活保護受給の際にとても耐えられない言葉を投げかけられた」

「日本語が話せないために仕事でも差別を受け厳しい労働にしか就けず、体を壊している人が多い」

 帰国者2世の方は全国で2万4000人以上いるそうですが、国も市も現状を把握していません。
 この日の話し合いでは、生活保護に頼らざるを得ず老後の生活の不安も抱えている現状を何とか改善したいと、国や県、市などにも2世の要求を提出しようと「申し入れ書」をまとめることになりました。

 弁護士さんの支援もあり、2世の問題の解決にはこの福岡から全国へ発信していこうと参加者一同決意を新たにしました。

 

2015年 2月 10日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「帰国者の願い、日中友好は私も同じ」 唐家璇中日友好協会会長、川添緋砂子事務局長に福岡で語る。 

「帰国者の願い、日中友好は私も同じ」

唐家璇中日友好協会会長、川添緋砂子事務局長に福岡で語る。 

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 6月7日、福岡市内のホテルにおいて、中国の唐家璇中日友好協会会長を迎えて、中国福岡総領事館と「福岡県日中友好協会」の主催で日中友好の集会が開かれました。
 当日は、九州中国帰国者の会の代表も招待されました。
 川添緋砂子事務局長(日中友好協会福岡支部理事)は、唐家璇会長と懇談し、次のように語りかけました。
「唐先生、こんばんは、私は戦争の犠牲で中国残留孤児になりました。中国は残留孤児に対して命の恩人です。その恩は、一生忘れません。残留孤児の希望は日中両国永遠友好、永不再戦です。残留孤児の体の中に流れている血は、日中両国の人の血です。みんな日本と中国友好が一番大事と思っています。」
 微笑みをたたえながら聞いていた唐家璇会長は、「あなたたちの希望は、私と同じです。一緒に頑張りましょう」と帰国者の皆さんを激励しました。

2014年 7月 26日 中国帰国者, 中国残留孤児, 交流 | | コメント (0) | トラックバック (0)

福岡県弁護士会 「新役員祝賀会」開かれる 福岡県連も出席

福岡県弁護士会 「新役員祝賀会」開かれる 福岡県連も出席

 福岡県弁護士会「新役員祝賀会」が5月22日、ホテル・ニューオータニで行われました。

 招待を受けた福岡県連は、岩佐英樹、松山盛利両副会長、松尾武蔵理事長、星野信事務局長が出席し、中国人強制連行事件や帰国者支援で尽力いただいている弁護士のみなさんと交流を深めました。
 千人を超える弁護士会の「祝賀会」とあって、盛大な中にも、不祥事を根絶する決意のこもった凛としたものが感じられました。
 橋本千尋県弁護士会会長は「弁護士法第一条に示されている『 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。』原点にたちかえり、国民の立場に立って人権を守る、戦後復興のさなかに誕生した弁護士法は、あの間違いを繰り返さない社会の実現です。今後信頼回復に努力します。」と挨拶しました

 

2013年 6月 1日 中国人強制連行・強制労働事件, 中国人戦争被害者の要求を支える会, 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

帰国者、弁護団、支援者など130名参加 帰国者の会、謝恩の会開く (2010/4/29)

帰国者、弁護団、支援者など130名参加
帰国者の会、謝恩の会開く
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 4月29日、福岡市内のアイレフで中国九州地区帰国者の会の皆さんが、これまでお世話になったお返しにと、弁護団、支援する会、友好協会関係(福岡県連、大分、長崎、熊本の各支部)、新支援策を作った時の与党PTの座長 野田毅 衆議院議員などに対して、謝恩の会を開催しました。

 参加者は総数百三十名名余。 当日は、帰国者だけでなく、その家族の人たちも参加し、朝9時過ぎから、男の孤児の皆さんも一緒になって、野菜をきざむところから、すべて手作りで、エビチリ、八宝菜、肉料理などの高級料理、水餃子やチャーハン等を、12時ころまでかかって作ってくれました。 とても美味しく、お腹、いっぱいいたただきました。

 弁護団、武田正勝 協会県連会長、野田毅 衆議院議員、支援者の一人ひとりに、木村琴江 団長より、額に入った個人宛の感謝状が贈呈されました。

 孤児の皆さんへの支援は、2世3世の方も含めて、課題はあります。 既に協会や支援する会には相談が寄せられており、早速、活動を進めています。

2010年 5月 23日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

福岡と大連弁護士会が提携交流 (2010/2/27)

福岡と大連弁護士会が提携交流
調印祝賀会に武田県連会長が出席

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 2月27日、福岡市内のホテルで県弁護士会と大連市律師協会の交流提携調印式がありました。
 式典には両会の弁護士、吉田宏福岡市長、報道関係幹部、武田正勝協会県連会長など約70人が出席。池永満県弁護士会長は、中国人強制連行・強制労働訴訟や残留日本人孤児訴訟などに携わってきた体験にも触れ、「平等、互恵、内政不干渉の原則に則り、相互交流を通じて、基本的人権の擁護と社会正義の実現に貢献する」と力強く挨拶しました。張耀東大連律師協会長は「中日友好のためにも両国の弁護士の交流は大切。レベルも高まる」と挨拶しました。武田県連会長は吉田市長をはじめ、参加者と交流を深めました。

2010年 3月 15日 中国人強制連行・強制労働事件, 中国残留孤児, 交流 | | コメント (5) | トラックバック (0)

つながりあう日本と中国 久留米大学で講演会 講師は馬奈木支部長 (2009/12/2)

つながりあう日本と中国

久留米大学で講演会 講師は馬奈木支部長

Img_20091226_01 12月2日、久留米大学で、馬奈木昭雄弁護士の講演会と先生を囲んでの懇談会を開きました。
 主催は、ぱんだ(久留米大学日中交流サークル)で、支部は協賛で応援しました。
 テーマは学生のみなさんが決め、先生にお願いしました。当日は学生・留学生を中心に、30名余が参加し、深い感銘を与えました。

 先生は、中国残留孤児福岡訴訟弁護団長でもあり、「中国残留孤児の悲劇はなぜ生まれたのか」と問いかけ、明治政府の「富国強兵」の目的、朝鮮・中国侵略の歴史を説き、「王道楽土」建設の名の下に送りこまれた満蒙開拓団が、戦後も「現地土着方針」の下で、将来の再興を期して「棄民」されたこと、この方針撤回は何もなされていないことなどを話されました。

 懇談会では、ファシムが台頭する原因が話題となりました。先生は、最後に、市場経済を取り入れた中国が、社会主義体制の中で、貧富の格差をどう克服していくか、壮大な歴史的実験に挑戦していることに注目していると語られました。
 日本でアメリカ流の経営学修士を取って中国に帰ろうと頑張っている留学生たちには、根本的問いかけとなったようです。
 学生の平田さんからは「今も苦しんでいる方がいるということが、戦争の責任から決して背を向けてはならないことの大きな理由だと思います。」と感想文が寄せられました。       (野)

2009年 12月 27日 講演, 中国残留孤児, 久留米筑後支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中国帰国者の「夕陽紅歌舞隊」初公演 (2009/6/29)

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 福岡県内の中国残留孤児とその家族が、趣味や特技を活かして、「歌舞隊」を4月に結成し、その初公演が、6月29日、協会福岡県連合会の武田正勝会長が経営する病院でありました。
 当日は、入院患者や職員の前で、約30名が歌や踊りを披露し大喝采をあびました。中には、日本の歌に涙して聞く高齢者もいました。
 フルートを演奏し、合唱の指揮者も務めた木村安弘さんは、「私は日中友好協会の会員です。今後、公演を続けていきたい。協力をお願いします」と目を輝かして語っていました。
 挨拶をした武田会長は「みなさんは、戦争のために苦労されました。今後は、歌や踊りを楽しみながら幸せになってください」と帰国者を激励しました。 

2009年 7月 8日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

帰国者の人を交えて新入会員歓迎のつどい 八幡支部 (2008/3/8)

帰国者の人を交えて新入会員歓迎のつどい 八幡支部

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 八幡支部は3月8日新入会員歓迎のつどいを行いました。
 当日は、朝9時に帰国者の方の家に餃子作り材料運搬のため、磯部支部長が行動開始。 会場には、帰国者の方20名と安部タマエさんが参加しての餃子作りが始まりました。 小倉支部から、深谷節子さんが参加してくれました。 餃子作りの合間には、帰国者の方同志が仲良く中国語で交流していました。 八幡支部からの参加は、13名でした。
 つどいの最初は、餃子パーティとなりました。
 歓迎と激励の挨拶を磯部支部長が行い、続いて北九州協議会会長の原博道氏が中国語を交えて挨拶をいただき、和やかな開会となりました。
 つづいて、残留孤児国賠訴訟福岡原告団の原田郁子さんと弁護団の安部千春弁護士の話に帰国者の方から今後のことも含めて質問もありました。 その後、北京風雷京劇団訪日公演の宣伝ビデオ鑑賞をした後、会員の皆さんの近況と友好の想い等を語り合いました。
 今後の取り組みについては、中国映画「覇王別姫」の上映会をすることを申し合わせました。(原)

2008年 3月 22日 中国帰国者, 中国残留孤児, 交流, 北九州協議会, 八幡支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

春節と新支援法成立を祝い 喜びに満ちた集い (2008/2/10)

春節と新支援法成立を祝い
喜びに満ちた集い

Img20080210_21  2月10日、福岡市「あいれふ」にて「新春のつどい」が開かれ、100名以上の参加者でにぎわいました。
 この集いの主催は、中国残留孤児国賠訴訟福岡原告団。協賛は、中国帰国者を支援する会です。
 時は中国の春節(旧正月)、新年と新支援法の成立を同時に祝い、喜びに満ちた集いになりました。
 まず、午前9時半から水餃子作りを原告団の人を中心に行いました。その水餃子に舌鼓をうった後、交流会に流れていきました。

Img20080210_24  はじめに、木村琴江原告団長、木梨吉茂弁護団副団長、名和田澄子支援する会会長が挨拶。日中友好協会や福岡日中文化センター会員の三味線、胡弓演奏、手品、バナナのたたき売りなど芸達者な出演者の後は、中国人就学生による少数民族の踊り、最後の閉めは元テノール歌手で原告団の山田博義さんによる歌唱となりました。山田さんの力強い歌唱力に惹かれて愉快なダンスも加わり和やかな雰囲気の中で閉会となりました。
 参加者の約半数は原告団の人々でしたが、いつになくどの人の表情も晴れやかで新年の門出を祝うよき集いでした。 (和)

 

  参加者の感想

◎帰国者の方が通訳の人の話に相づちを打って、楽しく聞いておられるお姿をみて、中国に思いをはせられているのだなーと思うと涙が出ました。「帰国してよかった」となってもらいたいです。

◎帰国者です。今日は大変よかった。中国・日中世世代代友好にいきましょう。

◎とても楽しかった。今後、帰国者の話をお聞きする機会があればと思います。

2008年 2月 22日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「新春のつどい」御案内 (2008/2/10)

「新春のつどい」ご案内

Img20080210_01  梅の花もほころび、春の訪れを感じる今日この頃ですが、皆様におかれましては御清祥のことと存じます。

 昨年末12月27日に中国残留孤児福岡国賠償原告団は、福岡地裁で訴訟を取り下げました。
 これによって2004年12月の提訴以来、国の謝罪と補償を求めた裁判は終結し、新しい支援法のもと既存の生活保護に頼らない生活が今年4月よりスタートします。

 しかし、新しい支援給付を受けるには煩雑な手続きを経なければなりません。
 この手続きは原告一人一人条件が違うので、きめ細かく粘り強い弁護団による相談活動によって支えられ進められているところです。裁判終結の本格的なお祝いは、この手続きが終了して支援給付金や増額された国民年金が原告の手元に届く4月以降に想定しています。
 この支援給付によって、私達もようやく普通の日本国民の生活に近づくことができ、人間としての尊厳を取り戻すことができつつあります。

 一つの区切りのついたこの期限に原告団によって「新春のつどい」を開催したいと思います。

 時はおりしも中国の春節、私達の命を助けてくれた中国の養父母もしのびつつ旧暦の新年のお祝いも兼ねて手作りの水餃子を味わってみてください。

 寒い時期ですが皆様のお越しを心よりお待ちしています。
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*日時 2月10日(日) 開会12時 閉会15時頃
*場所 あいれふ9階 大研修室
     福岡市中央区舞鶴2-5-1

*内容 手作りの餃子で食事・歌・踊り・話など
*参加費  一人500円

         お願い

◎餃子作りにご協力いただける方は9時半8階調理室にご集合ください
◎出演者を募集しています。1チーム(1人でも可)8分以内
◎申し込み 2月7日まで「支援する会」へ

    主催  中国残留孤児国賠償訴訟
                原告団長  木村琴江
    協賛  九州地区中国帰国者を支援する会
                代表世話人  名和田澄子

   福岡市中央区渡辺通2-8-23 日中友好協会福岡県連合会内
                  電話・ファックス 092-761-0604      

2008年 2月 1日 イベント, 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (3)

中国残留孤児福岡訴訟終結 (2007/12/27)

中国残留孤児福岡訴訟終結
原告団、弁護団、支援者の活動と国民の協力が結実

 「日本人として扱ってほしい」と2004年12月から5陣にわたって、137人の中国残留孤児が国を相手にあいてに賠償を求めていた「福岡訴訟」口頭弁論が12月27日、福岡で開かれました。
 新たな支援策を盛り込んだ、改正帰国者支援法の成立を受け、原告全員が訴訟を取り下げました。国側も同意し、裁判長は訴訟の終結を宣言しました。
 木村琴江原告団長(日中友好協会会員)は、「これまで、苦難の連続だった。これで、日本人として尊厳を持ち、安心して晩年の生活を送ることができる」と意見陳述をしました。
 馬奈木昭雄弁護団長は「孤児たちが本当に帰ってきてよかったと思えるように、国は誠実に支援策を実行してほしい」と訴えました。閉廷後の報告集会には原告、弁護団、支援者、約二百名が集まり、よろこびをわかち合いました。
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2008年 1月 12日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

お礼の街頭宣伝 県・市にも要請 (2007/12/8)

お礼の街頭宣伝  県・市にも要請
支援立法成立にあたって

Img20071208_01  福岡原告団と弁護団、支援する会は、福岡市内の天神町で、提訴3周年行動として、支援立法の成立にあたって、12月8日、原告、弁護団、支援する会、協会福岡県連から30名が千枚のチラシを配りながら、お礼の街頭宣伝を行いました。
 反応はとても良く、30分ほどでチラシを配り終えました。
 その後、福岡県庁と福岡市役所を訪れ、新支援策の実行にあたって要請をおこないました。
 原告団から、新支援策では自費帰国者に対する通訳支援は予定されていないのではないかなどの質問がされました。

2008年 1月 12日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

今後の活動がさらに大切 支援する会が総会 (2007/12/27)

今後の活動がさらに大切
      支援する会が総会

 九州地区中国帰国者を支援する会は12月27日、福岡市内で第5回総会を開き、あらたな支援法の成立を受けて、今後の活動をどのようにすすめるかについて討議を深めました。
Img20071227_01  「帰国者の老後の生活保障は一定前進するが、まだまだ地域社会では孤立しがちである」「法運用の上で今後いろいろな問題が出てくる。会の活動を強め支援できるようにしていくことが一層大事になってきた」などの意見が活発に出されました。
 そして、今後、裁判終了に伴い、原告団を支援して、多くの団体、個人に感謝とお礼の挨拶をおこなうにともに集会を開くことにしました。
 また、「支援法の理解と周知を帰国者とともにすすめる」「会員の拡大と組織運営の強化に努める」「帰国者との交流を強める」などを決めました。また、各県、各区から世話人を選び、事務局は福岡地区が担当することにしました。

2008年 1月 12日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中国残留孤児支援今後も大切 福岡訴訟の口頭弁論 (2007/11/21)

中国残留孤児支援今後も大切
弁論閉廷後、報告集会に150名

Img20071121_01  中国残留孤児福岡訴訟の口頭弁論が11月21日、福岡地裁でありました。新支援関連法案が成立する見通しをうけて、進行協議に入りました。
 法案が成立すれば、次回弁論12月27日で和解により訴訟は終結する見込みです。
 しかし、たとえ訴訟が終結しても、国が支援策を誠実に実行していくか、帰国者の人々が本当に日本に帰ってきてよかったといえるようになるのか、2世、3世の人々の精神的苦しみを含めて、まだまだ問題は残されています。協会は帰国者の人々とともに今後も交流と支援を続けることが大切です。
 なお、当日、閉廷後、法案について弁護士団から詳しい報告がありました。
 また、12月7日、13時から宣伝と県・市への要請行動が計画されています。

2007年 12月 2日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

新支援策の決定・残留孤児政策の転換に思う

 新支援策の決定
    ・残留孤児政策の転換に思う

      九州地区中国帰国者を支援する会代表
      日中友好協会福岡支部理事
 
    名和田 澄子

Img20070718_11  中国残留孤児国家賠償訴訟の九州6県の原告団役員会と弁護団は、7月5日に会議を開き政府・与党による新支援策の受け入れを決めました。各地の原告団も同様の会議を行い、その結果を持ち寄り、7月8日に全国原告団・弁護団として中国残留孤児新支援策の受け入れを決定し、訴訟の終結の方向性が見えてきたわけです。
 おりしも7月18日福岡地裁での第14回口頭弁論の終了後、「あいれふ」で新支援策の説明会が行われました。そこで弁護団から強調されたように「今回の新支援策は日本政府が責任を認めたことで決定された。与党の資料には明確には国の責任とは言っていないが、国策として孤児の家族が中国に渡ったこと、帰国が大変遅れたこと、帰国後の支援策も十分な成果を挙げられなかったことを認めている。」 そこに、「今までの判決の内容も反映している。」と付け加え、新支援策が中国残留孤児の9割近くが原告となった裁判の力の成果であることを確認しあいました。この集会に参加した百人余の原告団の表情はいつになく明るく晴れやかで希望に満ちていました。
 この支援策は骨子のみで、その全体性や細部にわたる内容、各個人に対して具体的な給付額などはまだ、明らかにされていません。しかし、福岡地区では9割の原告が生活保護を受給し、その枠内で窮屈な生活を強いられてきた、これまでの状況を大きく転換できるものであります。現在、この支援策を原告団が常々口にしていた「自由と人権を求めたい。普通の日本人として暮らしたい。」という願いに近づけていく為に、具体的要求を練り上げて今秋の国会での立法化に反映させようと運動を続けているところです。
 まだ、闘い半ばですが、ここまで到達できたのは、何よりも当事者である原告団の力、弁護団の献身によります。当支援する会も世論を喚起する上では一定の働きを行いました。支援活動を行う中で、日本社会には、戦争を経験した世代を中心に中国残留孤児に対する深い関心と同情、共感が広範に存在することを知りました。福岡のマスメディアもこの問題を良く取り上げてくれ、世論形成に寄与しました。与党・プロジェクトチーム、有識者会議にもこの世論の力が影響を及ぼしていることでしょう。一区切りついたこの裁判ですが、ご協力いただいた会員の皆様に感謝すると共に、今後も引き続き残留孤児支援をお願いいたしたいと思います。

2007年 8月 8日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

新しい支援策について、意見交換会 (2007/5/31)

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 5月31日、厚生省の新しい支援策について、原告団、弁護士、支援者の意見交換会が福岡市でありました。
 当日は、原告団から木村琴江団長他約80名、弁護団から馬奈木昭雄団長、椛島敏雅事務局長をはじめ多数の弁護士、支援する会から松山盛利事務局長他5名の会員が参加しました。
 原告団からは、医療費扶助、住宅費扶助、配偶者給付金について強い要望がありました。
 馬奈木団長は、「要求はみなさんの強い団結と闘いがなければかち取れない」と訴えました。
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2007年 6月 7日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

メーデー会場で 残留孤児支援の訴え

メーデー会場で 残留孤児支援の訴え

 5月1日、福岡市で行われたメーデーで、帰国者の会、協会福岡支部、支援する会の15名は共同で、孤児支援を訴えました。
 当日、中国人強制連行事件裁判の最高裁判決に憤った女性がただ一人プラカードを持ってメーデーに参加していましたが、一緒に行進も行い、運動をひろげることについて語り合いました。

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2007年 6月 5日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (1)

傷つけられ踏みにじられ続けて来た人生を償ってくれる支援策を  中国残留孤児福岡訴訟陳述

傷つけられ踏みにじられ続けて
来た人生を償ってくれる支援策を

   中国残留孤児福岡訴訟 原告陳述より

中国残留孤児福岡訴訟  私は1陣の原告で、今年66歳の田中早苗です。私がこの陳述で特に強調したい点は、政府から何も援助のない状況で帰国した自費帰国者の受けた苦しみや葛藤についてです。

 私の両親は、1934年に家族3人で満州に渡ったそうです。その後、長女、次男、三男、そして私が満州で生まれ、長男は1943年に、中学へ進学する為、日本に帰国しました。
 両親と死に別れた日の事は、私は幼く又あまりにも恐ろしすぎる出来事だった為か、記憶していません。しかし当時11歳だった姉の話によると、父は満州国のウランホトに住んでいた民間人1500人ほどを引率して帰国の任務を負い、葛根廟の裏山でソ連軍の戦車に砲撃を受け、沢山の人々が殺されたそうです。その時両親と2番目の兄が亡くなりました。幸運にも姉と3番目の兄と私の3人は、血の海の中から生き残りました。姉の忍は11歳、兄の旭は7歳、私は4歳でした。食べられる物は何でも食べ、濁った水でも飲んで生き延び、3人とも日本人孤児となり、それぞれ善良な中国人に養われ成長しました。
 私の養父の家はとても貧しい辺鄙な農村で、村には十数戸の家しかなく、小学校もありませんでした。9歳の時、養父は苦しい中、私を8kmも離れた学校へ通わせてくれました。当地の政府、学校、先生の援助で、小学校、中学校で学び、又、学費免除で二年間の中等専門学校で学び1961年9月、20歳の時電力学校を卒業して火力発電所に配属され働きました。1968年同じ工場の労働者と結婚して、2人の子供が生まれました。
 私は日本人であった為に、結婚でも制約を受け、文化大革命の時、調査や取調べを受け、大変辛い思いをしました。当時私は内モンゴルの少数民族の地区に住んでいて、国交回復前には日本についての情報がなく、日本がどのような状況にあるか、全く知ることはできませんでした。
 1972年、新聞を見て日本との国交回復を知りました。姉が厚生省の孤児対策室に連絡を取って、1976年に連絡の取れなかった上の兄を探し出せました。1978年上の兄の手助けのもと、1回目の肉親探しが実現できました。この時私と2人の子供は、初めて日本の国土に足を踏み入れ、美しい国土に感激しました。しかし、同時に大きな苦痛も感じました。それは「心の中で話したいことを、言葉で表現できない」という悔しさでした。感動しても、ただ涙で顔を濡らすだけでした。
 2ヶ月の肉親探しは、あっという間に過ぎ、中国に帰りました。働いていた工場では多くの同僚や友人が会いに来て、「あなた達は、また帰ってきて何をするの?日本はいいところじゃない。」と多くの人は羨ましく祝福していました。しかしある一部の人は、いつも陰で「小日本はまた戻ってきた。」と非難しました。

 肉親探しの後、永住帰国の説明や話は日本政府の人からは一切ありませんでしたが、1989年3月、姉の家族が同級生の援助の下で日本に帰国、永住しました。この事を知って私も非常に日本に帰国したいと思いました。ところが身元保証人を見つけなくてはいけないと言われ、日本の長男にお願いしましたが、なってもらえませんでした。姉は先に帰国したけれど、生活保護を受けていたのでなれませんでした。結局、保証人を見つけることができませんでした。長男は保証人になることを同意しませんでした。保証人になると、責任を負う必要があるからです。中国にいる弟や妹の3家族、1人でどうやって負担できるのでしょうか。1990年の2回目の一時帰国で親族訪問をした時、姉の知り合いの大阪市民会でボランティアをしている山田邦夫さんと知り合い、いろいろ援助してくださいました。私はこの時、帰国のルートを見つけたいと強く思っていました。15日間の滞在でしたが、この期間に私は福岡県庁の援護課に行き、私達一家が帰国できるように切実な心情をお願いしました。私と対応してくれた副課長は言いました。「あなた方のように、親族を見つけ出した孤児が帰国して定住しようとしたら、必ず親族が”身元引受人”とならなければならない・・・。」探して尋ねても、誰も身元引受人になってくれない状況でどのように帰国したらよいのでしょうか?絶望的になり、帰路大阪の山田さんに相談しました。支援を通して帰国を実現することができますかとお聞きすると、「孤児の問題は、国が責任を負うべきです。もしあなたがどうしても帰国したいのならば、一切の帰国費用を自分で負担しなければなりません。そのため、保証人の工場で働かなければなりません。」と言われました。誰でも国費で帰国したいのはヤマヤマです。しかし身元引受人に親族がなってくれなければ、国費で帰国できなかったのです。私は中国に帰り、家族と相談し、大阪市民会の支援を通して自費で帰国する決心をしました。

 1991年末、保証人の工場から30万円旅費として借り、一家4人内モンゴルの包頭市から天津港を経由して神戸に上陸しました。税関に入ったら、私達が「中国のパスポート」をもっていたので、すぐに不法入国とみなされ、大阪の入国管理局で調査を受けました。私達の携帯した物品を差し押さえられました。「審査しなければなりません、大体4ヶ月かかります。この期間は勝手に居住地を離れてはいけません。」と言われました。日本人なのに難民扱いを受けることが、とても悔しく、又苦痛でした。二日目に工場の保証人が来て、携帯した物品を受け取って工場の居住地に着きました。一家4人は、狭い1DKの工場の寮に住むことになりました。私達一家は自費帰国の為、定着促進センターに入ることできず、国からは何の援助もありませんでした。帰国費用の借金返済の為、又日々の生活の為に、調査をうけている保障先である大阪市民会が紹介した工場で働きましたが、ただ工場と寮を往復する日々でした。日本語も話せず、自費帰国者には、勉強する場所も機会も何も与えられませんでした。審査が終わり、4ヵ月後の1992年3月24日に正式に永住帰国を認められました。

 この時、家族皆で相談して、姉一家がいる福岡に定住したいと思い、又福岡県の援護課に行き、私達の状況を説明して、福岡に定住したいことを伝えました。応対した方は「あなた達の状況は、私達は調査を経て事実であることは分かります。とても同情いたします。福岡に来て定住してもいいです。しかしあなた達は生活保護を受けることはできないし、定着促進センター、自立研修センターで日本語を学ぶこともできません。住居、仕事、全て自分で解決しなければなりません。」と言われました。このような厳しい条件に対して、私達は家族で何度も話し合い、考慮してやはり福岡に定住することを決めました。大阪の工場で一生懸命に働き、食費も切りつめ、やっと借金を完済しました。
 1992年4月、大阪から福岡に来て仕事を探し、夫婦2人で浄水器の工場で働きましたが、1ヶ月2人で働きやっと11~12万円の収入でした。これでは生活できずに、夫は友人の手助けで麺を作る食品工場の仕事を見つけました。仕事を始めて1週間は、姉が傍らにいて通訳にあたりやっと固定の仕事につけました。11年間働きました。私は縫製工場でアイロンをかける仕事をしたり、ペットを育てる工場で働いたり、4年間清掃の会社で働き、2000年清掃の会社は私を解雇しました。それ以後仕事をみつけられません。

 日本に来てから、私達はとても多くの挫折に会いました。言葉が通じない、精神的、経済的なストレスなどの影響で、夫の体はだんだん悪くなり心臓病を患い動悸が激しく、癇癪を起こし、眠れなくなってしまい、しかたなく2005年7月、仕事を退職して中国に行って治療をしました。
 清掃の会社を解雇された時、私はすでに60歳でしたが、やはりまだ日本語の勉強をしたいと思いました。それで娘に電話で定着促進センターに連絡してもらいました。センターの責任者に「あなた達は帰国してすでに5年を経過しています。又自費で帰国しました。無料でセンターを利用して勉強することはできません。更に皆帰国して10年経っています。日本語がまだできないのは、頭に問題があるのではないですか。」と言われました。日本語が話せず、交流もできず、社会の仕組みもよく分からないためにやはり勉強しなければ・・・と奮起して問い合わせたのに、このような残酷な返事を聞いて、本当に大きなショックを受けました。私は日本語を話すことはできませんが日本人です。国からの援助も支援もなく、日本語を学ぶ機会も時間もなく、国費帰国者より更に厳しい条件の中で生きてきました。私が自費帰国したのは、間違いだったのでしょうか。間違いはどこですか。

 人生は本当に短いものです。私達の国家は、孤児達の一生の幸福を破壊し、生涯の尊厳を剥奪し、教育を受ける権利を遅延させました。
 姉の田中忍、兄の田中旭も残留孤児訴訟の原告です。私が訴訟に参加したのは、日本政府は半世紀以上にわたって孤児達にこのような状況を強いた責任を認め、それに対する賠償を要求するためです。現在、日本政府は孤児達に対する新しい支援策を検討していると聞いていますが、孤児達を傷つけられ踏みにじられ続けて来た人生を償ってくれる支援策が出されること、心から希望しています。しかし、支援策はこれからの私たちの生活の保障であって、これまでの償いではありません。私は、日本政府が私たちに謝罪するまで裁判を続けるつもりです。

 そして最後に、弁護士の先生方や支援者の方々は、孤児達のために尽くしてくださった苦労や努力や援助に対し心から感謝しています。
 ありがとうございました。

2007年 6月 3日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日本に帰ってよかった、といえるように (2007/2/7)

日本に帰ってよかった、
といえるように

残留孤児問題の早期解決を求める街頭活動

Img20070207_1  中国残留孤児福岡訴訟の原告と弁護団に、協会福岡支部と「中国帰国者を支援する会」の7名も加わって総勢35名が、2月7日、福岡市の天神交差点付近で、「残留孤児問題」の早期解決を国に求める街頭活動を行いました。

 原告、支援者たちの胸には、”わたしたち なにじんですか?” ”心から「日本に帰ってよかった」といえるように” というゼッケン。残留孤児のきびしい現状や支援を訴えるビラに、通行人の多くの方が足を止めます。「東京の裁判はヒドかったねー」「がんばってください」と署名に応じる人もいます。

 署名の訴えに、こころよく応じてくれた女性と顔を見合わせたOさん、期せずして「あれー」「まー」双方の口から声が出ました。高校時代の旧友との何十年ぶりの偶然の再会でした。積もる話の中からOさんが大連、旧友は奉天(現瀋陽)からの引揚者だということも分かり、今後の協力を約束しました。

 この日1時間の活動で、97名の方々が署名に応じ、5,133円募金協力がありました。(三)

2007年 2月 27日 中国残留孤児, 福岡支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論 その1 (2006/9/20)

法廷を埋め尽くす原告、支援者
中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論

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裁判を終えての報告集会。馬奈木弁護士、田中弁護士が「国に悪いことしたと
認めさせるまで、力を合わせてがんばろう」と心に染みる熱いあいさつをしました。

 残留孤児福岡訴訟第9回弁論は、9月20日、福岡地裁で開かれ、原告の毛利憲治さん、田中弁護士が意見陳述をしました。
 当日も、大法廷の傍聴席は原告と支援者でいっぱいとなりました。
 3人の意見陳述の要旨を順次紹介します。

第9回弁論 意見陳述書 要旨 その1
原告 毛利憲治

 私は大分の日田市に住んでいます。1943年9月17日に「満州国」黒龍江省の元宝村で生まれ、今年63歳です。終戦当時、まだ2歳にもなっていなかった為、周囲の状況は知りませんでしたが、父母は大分県の開拓団として中国に渡ったそうです。その後父は召集されフィリピンに送られ1945年に戦死しました。
 日本の敗戦により、ソ連軍や中国の地方軍が開拓団の日本人を襲うようになり、中国に残された日本人は集団自殺したり、殴り殺されたり、銃殺されたり、餓死や病死したりと、本当に大勢の人が亡くなりました。私の母も苦しい状況の中で、6歳の姉と2歳にならない私を連れて、鉄道のレールの上で横になり、自殺をしようと汽車がくるのを待っていました。3時間待ちましたが汽車は来ませんでした。そのような時、鉄道局に勤務していた後に私の養父になる中国人が、片言の日本語で「ここで何をしているのか?」と尋ね、母は「自殺をしたい」と答えた為、自殺することを思いとどまるよう説得し、私達親子は救われました。
 私が4歳の時に、姉が病死し、6歳の時母が病死し、私は孤児となりましたが、命を救ってくれた中国人が私の養父となり、実の子以上の愛情を持って私を育ててくれました。養父は知識と教養があり、大変優しく、私が虐められてはいけないと、後妻も娶りませんでした。愛情深く慈しんでくれた養父の恩は、永遠に忘れることはありません。しかし、養父の生活状況は裕福ではありませんでした。養父の負担を軽減する為、私は14歳で小学校を卒業すると、すぐ工場で働き始めました。働きながら工場の技術学校で2年間勉強し、その後、企業管理等の専門知識を学び、労働者、技術者、管理職等の仕事に就きました。
 養父は私の為に何度も引越しをしたので、誰も私が日本人であることを知りませんでした。文化大革命の時、日本人の孤児が批判闘争されている光景をこの目で見ましたが、大変恐ろしい光景でした。日本のスパイ、階級の異分子、革命の隊伍にもぐり込んだ敵などと、様々なレッテルを貼った帽子をかぶせられて、無情な批判や暴力行為を受けているのです。優しい養父や妻子までも巻き添えにするのでは、と考えると身も震えるような恐怖を感じました。
 1972年に日本と中国の外交関係が結ばれましたが、ほとんどの日本人孤児には、帰国の為の具体的な措置や方法、手段などの情報が伝わらず、皆どのようにしてよいのか分かりませんでした。もしこの時、日本政府がすぐに孤児を帰国させる手立てを講じていたら、孤児が遭遇した色々な状況も現状とは決定的にちがったはずです。多くの孤児が帰国するようになったのは、1980年頃からです。この10年の遅れは、孤児の直面する言葉の問題や仕事の問題を更に困難にさせ、本当に取り返しのつかない遅れにしてしまいました。もっと早く帰国できたら・・・と、多くの孤児は今でも悔しい思いでいます。
 1978年、病床の養父から、はっきりと「お前は日本人の遺児で日本にはお前の身内がいる、機会があればお前の祖国に帰りなさい」と言い、手がかりをいくらか残してくれたことは、私にとって幸運なことでした。
 1980年に日本の民間団体が残留孤児を探す活動を行っていることを職場の親友から教えられました。私は手紙を書いて養父が残してくれた手がかりを知らせ、1年余りの時間を経て、母親の違う姉を見つけることができました。私は、ただただ一刻も早く姉に会いたいと思うだけで、他の事は何も考えませんでした。
 1982年11月、日本に一時帰国し姉に会い。40年経ってやっと故郷に帰りつくことができました。しかし、帰ってから私が15歳の時に死亡宣告されていて、戸籍が抹消され、墓石もあり、そこには私の名前が刻まれていました。国はどうしてこのような事をするのでしょうか。生きている人間に死亡を宣告し、死亡宣告さえすれば、私達を永遠に捨て去ることができるというのでしょうか。1983年4月に裁判所を通じて戸籍を回復しましたが、何をするにも外国人登録証を要求されました。日本政府は私達を日本人と認めていたのでしょうか?
 1990年7月、一家4人(私と妻、二人の子供達)で帰国し、福岡県宇美の帰国者定着促進センターに入所しました。しかし20歳を越えていた長男の旅費は支給されず、定住する際も生活費も貰えませんでした。家族が離れ離れになる悲劇を二度と繰り返さないため、苦しい経済状況でしたが、自費で支払いました。
 1990年11月姉のいる日田市に引越し、3ヶ月だけ生活保護を貰いその後仕事を自分で探し、必死に働きました。飲食関係の仕事に2年、車の部品を扱う会社に2年、青果会社に8年勤務し、2003年9月、満60歳で定年退職しました。
 その後、息子が日田市で中華料理店を開業し、私達夫婦は、現在この息子の店を手伝いながら、食事させてもらっています。息子も4人家族で余裕がないので、お金は貰っていません。社会保険事務所に行って厚生年金を計算してもらいました。年金対象期間は137ヶ月で、もらえる年金は60歳から63歳までが毎年4万6千円、63歳から65歳までが毎年29万円、65歳以降は毎年48万円あまりです。これだけのお金でどうして生活できますか?これからどうやって生活していけばいいのでしょうか?帰国して3ヶ月だけ生活保護を受け、後は必死に努力して、働いてきました。それなのにこのような僅かな年金しか貰えないのです。日本政府は、このような私達残留孤児の経済状況をはたして知っているのでしょうか?聞くところによると、孤児の8割近くが生活保護を受け、少ない生活費で、僅かなお金を節約し、食事や日用品さえも削っています。養父母のお墓参りに中国に行くと生活費は差し引かれます。本当に優しい恩のある私の養父のお墓参りも、お金がないために、私は12年も行けないのです。良心がさいなまれ、心が痛みます。孤児は皆同じ気持ちです。
 私達は、多くを望んでいるのではありません、普通の日本人の暮しがしたいのです。私達残留孤児が、日本国籍を失い、日本語が話すことができなくなった原因は、戦争にあり、戦争は国家が引き起こしたことです。日本国内に住んでいた日本国民とは違う多大な被害を受けているのです。勇気を持って、私達に生きる希望を与える判決を下してくださるようお願いいたします。

2006年 10月 1日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

集会参加者に訴えて 残留孤児署名475筆 原告団と協会福岡支部 (2006/3/26)

集会参加者に訴えて 残留孤児署名475筆
原告団と協会福岡支部

Img2006326_1_1  3月26日、福岡市で「許すな!庶民大増税・憲法9条改悪」を掲げて6600人が参加して県民集会が開かれました。
 この集会に福岡支部9名と孤児裁判(残留孤児国家賠償訴訟)福岡訴訟原告団6名が参加して、全国の原告団の半数を抱え、5月に地裁結審を迎える「東京訴訟の公正裁判を求める署名」を集会参加者に訴えて475筆を集めました。
 今後、協会は帰国者との統一行動や交流を深めていくことにしています。

2006年 3月 29日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中日友好楼に募金5万円 田川支部

中日友好楼に募金5万円
田川支部

 田川支部が、昨年12月に開いた、日中友好コンサートは第4回目を数え、200名近い市民が押し寄せ、すっかり支部恒例の行事となりました。
 この益金の中から、5万円の支援金を残留日本人孤児たちの養父母が生活している中国吉林省・長春市の「中日友好楼」におくるために、このほど協会本部に届けました。

2006年 3月 29日 中国残留孤児, 田川支部 | | コメント (0) | トラックバック (0)

新聞も大きく報道 中国帰国者弁論大会 (2006/3/5)

新聞も大きく報道 帰国者弁論大会
協会福岡県連が帰国者支援の会、帰国者の会と共催で

 第二回の弁論大会は、3月5日、日中友好協会福岡県連、帰国者支援の会、帰国者の会の3団体の共催で、福岡市で開かれました。 福岡支部、小倉支部の30名の会員を含めて、帰国者、市民など60名が参加しました。帰国者の涙ながらの訴えは胸に迫るものがありました。
 県連からは、北川栄市副会長があいさつ。侵略戦争の犠牲者である孤児たちの支援のために、協会は一層奮闘することを約束しました。
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2006年 3月 11日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

帰国者の弁論を聞いて衝撃 (2006/3/5)

帰国者の弁論を聞いて衝撃
 26才の女性・YSさんからメールが、実名で寄せられました。その全文を紹介します。

 「私は、現在26歳です。勿論戦争の事は、学生の頃、原爆資料を見たくらいで、実際に起きた事はほとんど知りません。 最近、NHKで放映された「大地の子」を見ました。その時、これは本当にあったことなのか・・と、とても驚きました。 同時に何も知らずにぬくぬくと生きてきた自分が恥ずかしくなりました。
 今日の帰国者の弁論を聞いて、改めて衝撃を受けました。彼らがどの様な生活を虐げられてきたか、想像を絶します。過去を知ることで、私にもこれから何か出来る事があるのではないかと思います。
 今後、またこの様な機会があれば、是非参加したいと思いますので宜しくお願いします。

2006年 3月 11日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「日本の侵略戦争で両国民は戦争被害者」 強制連行・労働事件 市民集会 (2006/2/18)

 日本の侵略戦争で
    両国人民は共通に被害者

 強制連行・労働事件 市民集会

asai060218_1  2月18日、福岡市民会館において、「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟を勝利させる為の市民集会」が200人を超える参加者で開催されました。

 主催は、支援団体「中国人戦争被害者の要求を支える福岡の会」「中国人・強制連行事件福岡裁判を進める会」と「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟弁護団」ですが、日中友好協会福岡県連と各支部の全面的バックアップが集会成功の大きな力となりました。

 浅井基文さんの講演「中国関係の過去・現在・未来」では、1972年の日中共同声明から問題をときおこし、台湾問題や日米安保が「日本流の解釈でごまかされた」こと。そのうえ、今日、アメリカの世界戦略(先制攻撃)に日本政府は急速に歩調を合わせ、日本国民はきわめて、危険な状況に追い込まれつつあると警告しました。

 戦後補償問題を考える視点として日中戦争・太平洋戦争が『日本の侵略戦争であった』という原点を日本国民の間に明確にする。そのうえで、日中両国民共通に『日本の戦争政策の被害受忍の義務はない』との視点が大切だ、と語りました。

 集会は、その後、後藤富和、渡辺昌子両若手弁護士の訴え、「支える会」の石川捷治世話人、「進める会」の中村元気世話人の決意表明、松岡肇弁護団事務局長の経過報告、木村琴江「残留孤児の要求を支える会」会長の訴えがありました。

img_4406032231  また、協会久留米筑後支部の会員である、高尾翠さんと著書「天皇の軍隊と平頂山事件」が参加者に紹介され、用意した全ての書籍が売り切れました。(岩)


高尾翠著 「天皇の軍隊と平頂山事件」
  新日本出版社 ; ISBN: 4406032231
  2005年11月 単行本 173ページ
              → 購入の案内はこちら
福岡県連でも取り扱っております。
お問い合わせは、日本中国友好協会 福岡県連合会、各支部へ。

2006年 2月 25日 中国人強制連行・強制労働事件, 中国人戦争被害者の要求を支える会, 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

市民集会・帰国者弁論大会 成功のために各団体を訪問 (2006/1/30-31)

市民集会・帰国者弁論大会
  成功のために 各団体を訪問

 中国人強制連行・強制労働裁判は、3月29日が判決です。多くの市民に事の事実、真実を知ってもらうため、2月18日、浅井基文・元外務省中国課長を講師に迎えて開く市民集会をもちます。会場の福岡市民会館小ホールいっぱいの参加者で埋め尽くすことができれば、少なからぬ反響を呼びます。 (→ 浅井基文さんの2月18日の講演の案内はこちら)

img20060130  そのために、現在、「中国人戦争被害者の要求を支える会」「中国人・強制連行事件福岡裁判を進める会」「中国人強制連行・強制労働事件福岡訴訟弁護団」の三者が協力して県下一円に働きかけを強化しています。

 「支える会」と日中友好協会福岡県連合会は1月30、31日の両日、石村義治・支える会代表、岩佐英樹・県連理事長をはじめ11名が組をつくって、16の団体、労組、政党などを訪ね協力要請をしてきました。

 また、要請行動では佐々木ミヤ子・中国帰国者を支援する会事務局員も参加し、3月5日の中国帰国者日本語弁論大会に参加について協力要請を行ないました。 (→ 中国帰国者日本語弁論大会の案内はこちら)

2006年 2月 11日 中国人強制連行・強制労働事件, 中国人戦争被害者の要求を支える会, 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

中国残留日本人孤児支援で北九州市と交渉 (2006/1/11)

中国残留日本人孤児支援で市と交渉
     北九州・支援する会
 1月11日、北九州市に医療通訳など、帰国者の生活環境を整えるために、帰国者・支援する会・弁護団20名が要請交渉を行いました。
 市側は「生活保護の対応は高圧的にならぬよう配慮する」などの回答をしました。

2006年 1月 28日 中国帰国者, 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

人間らしく暮らしたい (2005/12/8)

人間らしく暮らしたい
中国残留孤児の方々が訴え

 12月8日は日本が太平洋戦争を開始した日です。ちょうど昨年のこの日に福岡地裁に中国残留孤児の人々が「普通の日本人として人間らしくくらしたい」と日本政府を相手取って国家賠償請求訴訟をしました。
 その一周年を記念して福岡市の中心部5ヶ所で統一宣伝行動をおこないました。当日は原告の帰国者、弁護団、支援者、合計88名が参加、チラシ4000枚を配り、署名160筆をしてもらいました。
 寒波到来の師走の町でしたが、残留孤児と同世代の年配の人が足を止め、柿をいただいたり、募金箱は置いていないのに一万円も寄付をいただいたり、通行中のバスの窓を開けて宣伝のマイクを聴こうとされたり様々な反応がありました。
 また、福岡県や福岡市にも中国帰国者の為の医療通訳等を求める要請に行きました。その後、中央市民センターで交流会を開き、当日の宣伝活動の経験交流をおこないました。
 マスコミからも多くの取材を受け新聞報道などもおこなわれました。人の目につく行動をもっとおこない世論を作り上げていく必要性を感じた一日でした。(名)

2005年 12月 24日 中国残留孤児 | | コメント (0) | トラックバック (0)