中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論 その1 (2006/9/20)
法廷を埋め尽くす原告、支援者
中国残留孤児福岡訴訟第9回弁論
裁判を終えての報告集会。馬奈木弁護士、田中弁護士が「国に悪いことしたと 認めさせるまで、力を合わせてがんばろう」と心に染みる熱いあいさつをしました。 |
残留孤児福岡訴訟第9回弁論は、9月20日、福岡地裁で開かれ、原告の毛利憲治さん、田中弁護士が意見陳述をしました。
当日も、大法廷の傍聴席は原告と支援者でいっぱいとなりました。
3人の意見陳述の要旨を順次紹介します。
原告 毛利憲治
私は大分の日田市に住んでいます。1943年9月17日に「満州国」黒龍江省の元宝村で生まれ、今年63歳です。終戦当時、まだ2歳にもなっていなかった為、周囲の状況は知りませんでしたが、父母は大分県の開拓団として中国に渡ったそうです。その後父は召集されフィリピンに送られ1945年に戦死しました。
日本の敗戦により、ソ連軍や中国の地方軍が開拓団の日本人を襲うようになり、中国に残された日本人は集団自殺したり、殴り殺されたり、銃殺されたり、餓死や病死したりと、本当に大勢の人が亡くなりました。私の母も苦しい状況の中で、6歳の姉と2歳にならない私を連れて、鉄道のレールの上で横になり、自殺をしようと汽車がくるのを待っていました。3時間待ちましたが汽車は来ませんでした。そのような時、鉄道局に勤務していた後に私の養父になる中国人が、片言の日本語で「ここで何をしているのか?」と尋ね、母は「自殺をしたい」と答えた為、自殺することを思いとどまるよう説得し、私達親子は救われました。
私が4歳の時に、姉が病死し、6歳の時母が病死し、私は孤児となりましたが、命を救ってくれた中国人が私の養父となり、実の子以上の愛情を持って私を育ててくれました。養父は知識と教養があり、大変優しく、私が虐められてはいけないと、後妻も娶りませんでした。愛情深く慈しんでくれた養父の恩は、永遠に忘れることはありません。しかし、養父の生活状況は裕福ではありませんでした。養父の負担を軽減する為、私は14歳で小学校を卒業すると、すぐ工場で働き始めました。働きながら工場の技術学校で2年間勉強し、その後、企業管理等の専門知識を学び、労働者、技術者、管理職等の仕事に就きました。
養父は私の為に何度も引越しをしたので、誰も私が日本人であることを知りませんでした。文化大革命の時、日本人の孤児が批判闘争されている光景をこの目で見ましたが、大変恐ろしい光景でした。日本のスパイ、階級の異分子、革命の隊伍にもぐり込んだ敵などと、様々なレッテルを貼った帽子をかぶせられて、無情な批判や暴力行為を受けているのです。優しい養父や妻子までも巻き添えにするのでは、と考えると身も震えるような恐怖を感じました。
1972年に日本と中国の外交関係が結ばれましたが、ほとんどの日本人孤児には、帰国の為の具体的な措置や方法、手段などの情報が伝わらず、皆どのようにしてよいのか分かりませんでした。もしこの時、日本政府がすぐに孤児を帰国させる手立てを講じていたら、孤児が遭遇した色々な状況も現状とは決定的にちがったはずです。多くの孤児が帰国するようになったのは、1980年頃からです。この10年の遅れは、孤児の直面する言葉の問題や仕事の問題を更に困難にさせ、本当に取り返しのつかない遅れにしてしまいました。もっと早く帰国できたら・・・と、多くの孤児は今でも悔しい思いでいます。
1978年、病床の養父から、はっきりと「お前は日本人の遺児で日本にはお前の身内がいる、機会があればお前の祖国に帰りなさい」と言い、手がかりをいくらか残してくれたことは、私にとって幸運なことでした。
1980年に日本の民間団体が残留孤児を探す活動を行っていることを職場の親友から教えられました。私は手紙を書いて養父が残してくれた手がかりを知らせ、1年余りの時間を経て、母親の違う姉を見つけることができました。私は、ただただ一刻も早く姉に会いたいと思うだけで、他の事は何も考えませんでした。
1982年11月、日本に一時帰国し姉に会い。40年経ってやっと故郷に帰りつくことができました。しかし、帰ってから私が15歳の時に死亡宣告されていて、戸籍が抹消され、墓石もあり、そこには私の名前が刻まれていました。国はどうしてこのような事をするのでしょうか。生きている人間に死亡を宣告し、死亡宣告さえすれば、私達を永遠に捨て去ることができるというのでしょうか。1983年4月に裁判所を通じて戸籍を回復しましたが、何をするにも外国人登録証を要求されました。日本政府は私達を日本人と認めていたのでしょうか?
1990年7月、一家4人(私と妻、二人の子供達)で帰国し、福岡県宇美の帰国者定着促進センターに入所しました。しかし20歳を越えていた長男の旅費は支給されず、定住する際も生活費も貰えませんでした。家族が離れ離れになる悲劇を二度と繰り返さないため、苦しい経済状況でしたが、自費で支払いました。
1990年11月姉のいる日田市に引越し、3ヶ月だけ生活保護を貰いその後仕事を自分で探し、必死に働きました。飲食関係の仕事に2年、車の部品を扱う会社に2年、青果会社に8年勤務し、2003年9月、満60歳で定年退職しました。
その後、息子が日田市で中華料理店を開業し、私達夫婦は、現在この息子の店を手伝いながら、食事させてもらっています。息子も4人家族で余裕がないので、お金は貰っていません。社会保険事務所に行って厚生年金を計算してもらいました。年金対象期間は137ヶ月で、もらえる年金は60歳から63歳までが毎年4万6千円、63歳から65歳までが毎年29万円、65歳以降は毎年48万円あまりです。これだけのお金でどうして生活できますか?これからどうやって生活していけばいいのでしょうか?帰国して3ヶ月だけ生活保護を受け、後は必死に努力して、働いてきました。それなのにこのような僅かな年金しか貰えないのです。日本政府は、このような私達残留孤児の経済状況をはたして知っているのでしょうか?聞くところによると、孤児の8割近くが生活保護を受け、少ない生活費で、僅かなお金を節約し、食事や日用品さえも削っています。養父母のお墓参りに中国に行くと生活費は差し引かれます。本当に優しい恩のある私の養父のお墓参りも、お金がないために、私は12年も行けないのです。良心がさいなまれ、心が痛みます。孤児は皆同じ気持ちです。
私達は、多くを望んでいるのではありません、普通の日本人の暮しがしたいのです。私達残留孤児が、日本国籍を失い、日本語が話すことができなくなった原因は、戦争にあり、戦争は国家が引き起こしたことです。日本国内に住んでいた日本国民とは違う多大な被害を受けているのです。勇気を持って、私達に生きる希望を与える判決を下してくださるようお願いいたします。
2006年 10月 1日 中国残留邦人帰国者 | Permalink
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