人生に友好の歴史あり⑤ 帰国者の立ち上げ運動を開始、「帰国者支援法」制定へ全力 木村琴江さん


二十九年前、43歳で帰国した木村さん。 当時、残留孤児など中国帰国者のほとんどは日本語が話せず、職場や地域社会で孤立。 お互いどんな生活をしているかわからない状況でした。 当時、ハンセン病問題で元患者さんたちが立ち上がり、国に勝利して制度改善を勝ち取ったことを知った木村さんは、「自分たちが置かれた現状を変えよう」と帰国者の会」を立ち上げ運動を開始。 全国で集団訴訟を取組み、やがて帰国者支援法を成立させます。
二歳半で残留孤児に「この
子だけでも」と母が哀願 両親は青森県出身、家族全員で開拓団として満州国間島省琿春県(当時)へ。
そこで木村さんは誕生、父親はシベリアに出征します。
一九四五年八月九日、ソ連軍が参戦、母親は幼な子七人を連れて逃避行。
西太廟難民収容所で母親は、王世代という中国人に「子どもを抱えて食べ物もなく、私も病気で死ぬのを待つだけです。どうかこの二歳半になる女の子(琴江さん)だけでも連れて行って助けて下さい」と泣いて頼みます。
王さん宅も子供がたくさんいたので妹の于さん宅に引き取られ、于秀琴と名付けて育てられます。
養父が病床で「日本人だか
ら将来帰国を」と告げる 幼い頃、周りの人から「小日本鬼子」といじめられた琴江さん。
養父母は日本人であることを明かさず愛情を注いで育てます。
小学校を卒業後、十六歳で働きだしたころ、養父が病床で「お前は中国人ではない。
日本人だから大きくなったら故郷へ帰ってみなさい」と告げられ、引き取られた経緯を知ることに。
十九歳で結婚、一男三女をもうけます。
国交回復後の一九七三年、中国の公安局から調査を受け「日本人孤児」として登録されます。
二十九年前、43歳で帰国
中華料理「帰郷」を開店 一九八六年九月一九日、身元は未判明のまま家族全員で帰国。
母国に帰れた喜びもつかの間、言葉は通じず体調を壊し病気に、二年間生活保護を受けます。
自立しようと努力の末、小さな中華料理店を福岡市東区箱崎に開店。
店名は「帰郷」。 見知らぬ両親の母国に帰れた喜び、ここを拠点にこれからの人生を強く生き抜く気持ちを込めた店名です。
60歳で「帰国者の会」立ち
上げ「支援法」制定へ全力 「九州の帰国者の会には百四十人以上います。高齢で日本語をほとんど話せず生活保護を受けて最低限の生活、老後が不安です。『支援法制定』に日中友好協会や弁護士の方が支援してくれ感謝に絶えません。日本人として当たり前の生活がしたい。これからも運動を続けます」九州地区・福岡県中国帰国者の会会長、協会福岡支部理事を務める木村琴江さんです。
2015年 9月 12日 中国残留邦人帰国者 人生に友好の歴史あり | Permalink
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