人生に友好の歴史あり⑩ 友好運動 二世代で 「民主的な社会に」父から薫陶 一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)
一番ヶ瀬宗幸さん(田川・85歳)
| 「大連で生まれ十五年間、中国で過ごしました。 大地の空気と水、食物に育まれ、現地の人々と共に成長してきた私にとって中国は祖国。 生涯友好運動を続けます」温和な語り口の一番ヶ瀬さん(八十五歳)。 時折示す強い眼差しに、父子二代にわたって続けられている運動への熱意と意思の強さが現れています。 戦後、田川の麻生セメント(現・麻生産業)で働き、協会の田川支部長や県連会長を歴任、「中国人殉難者の碑」建立などに尽力された人生を紹介します。 |
大連で出生、十五歳で
予科練に志願し海軍航
空隊に
父親の宗夫さんは満州鉄道に就職し大連で中国人の電工養成所、チチハルで発電所建設の現場に勤務、電機部門の独立で満州電業の新京本社へ移動します。
盧溝橋事件で侵略が始まると冀東電業公司の創立に唐山(河北省)へ。
続いて華北電業として膨張すると北京・済南へ赴任し終戦時は青島支店の支店長代理でした。
一番ヶ瀬さんは一九三〇(昭和五)年三月、大連で出生。
北京中学時代に志願、海軍航空隊員として鹿児島の部隊に入隊します。
中国人といっしょ
に食事「偏見」
しない父に感銘
父親の宗夫さんは中国人にとても親切な方でした。
一家五人、中国人のメイドさん達とはいつも同じ食卓で食事をしました。
メイド仲間で「一番ヶ瀬さん宅は待遇がいい」と評判になったほど。
「旧日本軍が本格的に侵略を開始してから中国人への蔑視が強まった」と語る一番ヶ瀬さん。
民主的な社会を願い「偏見」しない父の姿を見、メイドさん達とは兄弟のようにして育ちました。
帰国後、麻生産業に
勤務
父子でレッドパージに
戦後帰国した父親は行商をして生計を維持していましたが、友人の紹介で一家は田川へ。
一番ヶ瀬さんは進学を断念し父と共に麻生セメントで働きます。
父が日中友好協会田川支部準備会の代表を務めていた頃入会。組合の役員も務めます。
その後、突然レッドパージのリストに上がり父子は会社を追放されそうになります。
守ってくれたのは当時の課長、「会社の心臓部で働く二人は貴重な人材」と主張。配置転換で済みました。
殉難者の碑を建立、
友好運動の発展は
生涯の願い
その後父親は田川市議会議員から議長、県連の役員も務め五九歳で他界。
一番ヶ瀬さんは組合の役員もしながら友好運動に心血を注ぎます。
二〇〇二(平成十四)年、戦争中、炭坑に連行された中国人の「殉難者の碑」を建立。
「鎮魂の碑に参拝した家族の方が殉難者の中に知人の名を見つけて打ち臥し、慟哭して動けなかったことは忘れられない」と語ります。
父子二代にわたる友好運動への貢献は確固たる礎を築いています。
2016年 3月 5日 人生に友好の歴史あり | Permalink
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